通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

2 塩鮭鱒流通の発展と函館

鮭鱒市場の再編

塩鮭鱒の内地向け出荷

塩鮭鱒流通の新たな動き

大量供給される露領産塩鱒

台湾移出

塩鱒の中国輸出

塩鱒の輸出と日魯漁業

塩鱒の輸出取引方法

日貨排斥による影響

集散市場としての函館の後退

旧来勢力の後退と新規覇者の台頭

塩鱒の中国輸出   P329−P331

 中国大陸への塩鱒輸出は明治43年秋に200俵が上海に見本輸出されたことから始まり、翌44年の大倉洋行上海支店長河野久太郎の画策による7万俵の輸出を以て本格化していくことになる。特に大正時代に入ると急激な伸長をたどり、それは「函館港ノ塩鱒輸出ハ殆ント全部支那ノ占ムルトコロニシテ大正四年ハ同港輸出額十一万三千六百四十一石ノ内支那輸出額ハ一万三千五百七十二石ニシテ価額モ亦百拾七万円余ニ達シ輸出開始ノ年即チ明治四十四年ニ比シ数量価額共約八倍ノ激増」(前掲「函館ニ於ケル塩鮭塩鱒ニ関スル調査」)と記されたとおりだった。このように上海が塩鱒の輸入窓口となっていった背景には当初、当該品の輸出を取り扱っていた函館在住の華僑商人のほとんが浙江省出身であり、上海を中心にして商活動していたことが指摘される。上海にはそうした中国商人によって函荘と称する強力な昆布および函館品を取り扱う輸入組合が組織されていた。さらに函館・上海間航路の発達も重要な要因であった。
 このような塩鱒輸出の拡大において重要な契機となったのが、大正3(1914)年の函館商業会議所主催による支那大陸視察団の派遣であった。それは、この視察団の目的が、第1に函館海産商による上海への直接輸出の可能性を探ること、第2に露領産塩鱒の供給累増のもとで中国市場、特に上海を中心とした長江筋における販路開拓の可能性と需要の見通しを探ることにあったからである。特に、そこには華僑商人に掌握されてきた中国向けの塩鱒輸出に食い込もうとする函館海産商側の目論見が深く込められていた。結果としてこの目的に沿った成算が得られたことは、その後における塩鱒輸出の実績が示すとおりである。視察団の総勢は22名で、団長には函館海産業界の重鎮・小熊幸一郎、さらに団員には田中友次郎、佐々木忠兵衛、加賀与吉、小林伊三郎(安達商店代表)、阿部覚治、松田季蔵、小倉幸次郎(森卯兵衛代理)などの有力海産商が数多く含まれていたこともこの視察のもつ重大性を表すものとして注目される。さらに帰国後、団長の小熊幸一郎を提案者として露領水産組合北海道支部に揚子江流域における塩鱒の試食宣伝を旨とした「塩鱒販路拡張に関する建議案」が提出され、それによって長江航路の日清汽船船客に対する試食宣伝が大倉組上海支店に委託され3か年にわたって実施されている。なお、大正14年にも函館海産商同業組合主催の台湾支那鮮満視察団が派遣されているが、これはむしろ函館海産業界における中国輸出の成功を踏まえた市場視察といった性格を持つものであった。
表2−24 上海における塩鱒の輸入量推移
年次
輸入量
 千担
目廻り
  匁
換算石
 千石
明治44
大正1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
昭和1
2
70
65
130
250
285
213
324
215
77
202
248
409
191
426
179
486
185












137
155
221
178
288












80
275
81
273
64
日魯漁業曙光会「曙光」第1巻第1号より作成。
 中国向けの塩鱒輸出は、当初函館在住などの華僑商人を経て行われていたが、大正時代になると次第に邦人海産商による輸出が増加していくことになり、大正末頃には中国向けの輸出の主導権は華僑例の手を離れほぼ邦人側に帰すことになった。それは既に述べたように華僑商人に主導された輸出取引に対する邦人海産商側による商権の奪取とそれに伴う直接輸出の促進の結果であった。こうした輸出は、初期において在住支那商人、大倉組、三井物産、鈴木商店、湯浅商店、増田商店、阿部商店(加賀商店を通じて)などによって取り扱われていたが、次第に森卯、加賀、柳澤、細谷などの有力海産商にとって代わられている。初期における輸出商は支店間で機能分担することにより同時に上海における輸入商でもあったが、邦人による直輸出の確立の過程で前期の如く輸出については函館の専業問屋筋、上海における輸入については大倉組をはじめとした日本商社、といったシステムが構築されていったものと推定される。まさに塩鱒における中国輸出の大成は邦人による輸出と中国における日本商社による荷受けといった図式のもとで達成されていったのである。
 さらに塩鱒の輸出高(上海における輸入実績)は、明治44年の7万担から大正2年の13万担、さらに大正3年の25万担と増加傾向をたどり、大正3年以降はほぼ20万担台を中心に推移しているが、大正11年・13年および昭和元年には40万担台と大きく増進し、なかでも最高を記録した昭和元年は49万担に上がっている。もっともこの昭和元年を境に減少に転じ、昭和3年では5万担まで落ち込んでいる(表2−24)。
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