通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 2 塩鮭鱒流通の発展と函館 塩鱒の輸出と日魯漁業 |
塩鱒の輸出と日魯漁業 P331−P334 こうした輸出塩鱒の大半は台湾向けの移出の場合と同様に日魯漁業会社とその他の経営に係るカムチャツカ漁場の生産品であった。なかでも輸出においては日魯漁業製品の占めるウエイトが高かった。ちなみに大正9年においては上海向け輸出の主力になる散鱒(ばらます)直航船11隻のうち9隻が、また大正15年においては13隻のうち7隻が、それぞれ日魯漁業関係で占められていた(大正15年の残る6隻は本邦およびロシア漁業家の輸出によるもの)。製品の品質も、「支那輸出向けとしては、魚形比較的漆小(一尾芽廻り百八十匁から二百十匁位迄)なるを適当とせられ、且つ優良塩を十分に用ひ肉堅く黄褐色を帯びざる程度の品位が一般に歓迎せらるるを以て当地方出廻り品を通じ日魯漁業会社カムサッカ漁場の生産品は最優良品と目され、殆ど独壇上にある」(昭和2年7月27日付「函新」)といわれたように、日魯漁業製品は、輸出塩鱒製品のなかで最上級として位置づけられていた。 一方、中国市場向けの塩鱒輸出は、前身の堤商会も含め日魯漁業にとっては、台湾向けの移出と共に同社のカムチャツカ経営の安定において不可欠の要因であった。同社が、後述の散積輸送の開発や産地直航船の開航などの輸出において積極的な対応を図った理由もそこにあった。 さらに当該輸出品は、荷造方法によって散積・筵包・改良函入品に大別される。散積品は9月、10月にカムチャツカ漁場より上海に直送されるもの、筵包・函入品は11月から翌年4月まで函館市場から上海に直送されるものであった(表2−25、26)。輸出比率では散積品が圧倒的に多く、70%内外を占めていたが、それは、散積品は輸出における輸送経費の削減のために産地直航船とともに開発された荷造形態であったからである。その嚆矢となったのは、大正4年頃の大倉組(洋行)上海支店と日魯会社の前身である函館堤商会との間における「散積」の試送だった。その考案者が堤清六であったことを岡本康太郎の「函館財界五十年」(昭和26年1月1日から46回連載「函新」)は伝えている。 塩サケのバラ積みを考え出したのは堤清六さんでした。…堤さんはちょうど平塚さんが出張したオホーツクのマス漁場に連絡をつけ、塩も処理も特別にぎん味してバラに積んで塩マスを漁場からまっすぐ上海へ急送させたのです。その時はたしか上海の大倉組に委託して三百石ほどを送ったのでしたが、真夏で暑さのきびしいころでしたから、上海に先発させた係の人たちを「腐って来なければいいが…」と心配させたものです。ところがいざ船がついてみるとウロコがりんりんとかがやいており、今までの塩マスとは雲泥の相違でしたので、人々は感嘆しばしおくあたわず、今までの二倍半という高値で引っ張りだこの有様でした。これがきっかけで産地からバラ積みしても大丈夫との確信がもたれるようになったことが、その後の支那貿易の発展に大きく影響していきました。
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