通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 3 外国貿易の様相 戦後の貿易と日貨排斥 |
戦後の貿易と日貨排斥 P343−P348 第1次大戦の終了によって日本の輸出にかげりが生じ、大正9年から12年にかけて経済恐慌が頻発した。日本は戦争時における設備投資の増加に伴って短期間に重化学工業が発展したが、戦後の輸出不振にもかかわらず操業維持のための原材料の輸入は減少することなく、貿易収支は入超となった。市場別ではアジアの比重が圧倒的に高く、アメリカがこれについだが、ヨーロッパの比重は戦後には低下した。商品別では生糸の対米輸出が増えたほか綿織物輸出の比重も増した。他方アメリカ産の高級綿の輸入が増大した。北海道の貿易も全国的な動向の一環にあった。大戦勃発直前の輸出は1100万円台、終結時には約2倍となった。輸入は大正2年で250万円台、8年には700万円台であったが、大戦が終了して大正9年以降の急激な経済反動によって大きな影響を受けた。戦争終結により船舶不足が緩和されて、沈滞していた木材輸出に活況がみられたものの雑貨や澱粉の軍需食料は衰退し、9年の反動恐慌、12年の関東大震災を迎えた。しかしその後、道内産業の発展や人口増加に伴う消費需要増加から漸増傾向を示し、大正15年では輸入が2000万円台を記録するようになる。また米・小麦・大豆・原油・ブリキなどの新しいタイプの輸出品の登場がみられるようになる。 こうしたなか戦後の函館における外国貿易は日貨排斥という深刻な事態で幕をあけた。戦時下の日本の二十一か条の要求や、パリ講和会議で山東地方の旧ドイツの権益を引き継ぐことになった日本に対して中国では大正7年から北京の学生を中心とした排日運動が起き、商人の日貨排斥を含む民族運動、いわゆる五・四運動が展開された。また5月以降、上海での猛烈な日貨排斥が起き、一時小康状態を保ったが、福州事件は再び熾烈な日貨排斥運動を引き起こした。この日本産商品の不買運動は、日本産が独占的位置を占める海産物に集中した。
他方この時期の輸入は増減を繰り返しながらも全体としては増加し、大正7年以降は100万円台となり、大正9、11、14年と連年ではないが、300万円台の大幅なものとなった。9年の輸入が大台となったのは鉄製品の130万円をはじめ食塩74万円、燐鉱石61万円、石油33万円と伸びたことによる。燐鉱石はクリスマス島やナウル島からのもので人工肥料の材料(日本人造肥料(株)函館工場で消費)であったが、船繰りや低運賃によって輸入量が左右されるという不安定な面を持つ商品でもあった。石油はアメリカ産がおもであった。食塩は大正6年ころから輸入が増加するが、いずれも中国や関東州からの輸入であった。輸入増は国内産の生産減少も手伝ったが、露領漁業の進展に伴い塩蔵製品の製造のために需用が大幅に拡大し、これらは漁業用としてカムチャツカ方面へ送られた。関東州の塩は大正3年から函館に輸入されるようになり、翌4年の6月6日付け「函館毎日新聞」には「関東州塩来る」との見出しで鈴木支店が取扱い、関東州・朝鮮からの第1番船として汽船釜山丸が大連から函館に入港し、4万8000叺を陸揚げしたことを報道している。5年は2500万斤余、3万円余、さらに6年は1500万斤余、26万円と急増している。 ちなみに露領漁業に使用する塩は明治末ではイギリスや台湾から輸入されている。明治43年の函館駐在イギリス副領事のロイズによる「函館貿易報告」(横浜開港資料館蔵)は同年の春にイギリスの大型汽船が塩9000トンを積載し、リバプールから入港したことを伝えている。さらに日本では塩は政府専売であるため、輸入塩は函館で陸揚げできず、北の漁場に向かう日本のスクーナーに積み変えねばならなかったという。最大のスクーナーでも200トン前後しか搭載できないので長い時間がかかり、用意したスクーナー等が間に合わず、その船は2か月近くも函館に引き留められた。翌年の春に別に同じ船荷が見込まれているが、イギリス産は大雑把な魚の加工には適してないとの悪評を立てられたり、また漁業者には外国産を使わないようにとの圧力が掛けられているように思われると報告している。 しかし日本銀行函館支店の資料によれば、堤商会、輸出食品、日魯漁業といった大手漁業会社は函館のセール・フレーザー商会の仲介でイギリス塩を使用している。例えば大正8年では3社で1000万斤余りであった(「函館組合銀行史料」)。ただしこれらが輸入統計に現れないのは通関手続きをしない「通過貿易品」として処理されたからである。食塩は11年にはスペイン、エジプト、ドイツからも大量に輸入されている。12年以降は外国から輸入したものを函館で仮置きして通関手続きをしないで漁場へ送るという「中継貨物」として整理されたため統計上では激減する。ちなみに12年には函館からは150万円余が中継貨物として露領の漁場に輸送されている。 大正14年の輸入増はおもに英領インドと仏領インドシナからの外米にあった。在米の不足と米価騰貴に伴う関税免除が外米需用の激増につながった。しかし翌年になると再び輸入減となるのは道内の需用地が内陸部にあり函館よりは小樽が運送上有利であったために函館の比重は低減した。なお大正8年から昭和12年までの主要輸出入品の推移を3年ごとに表2−28に掲げた。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |