通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 3 外国貿易の様相 昭和恐慌下の函館の貿易 |
昭和恐慌下の函館の貿易 P352−P357 経済恐慌は大正期に数度起きたが、昭和2年にも起こり、さらに4年にアメリカで発生した経済恐慌は世界恐慌へとつながっていった。日本では世界恐慌の直前の5年1月に金解禁を断行したことで恐慌を激化させ、事業の沈滞や貿易の縮小を余儀なくされた。しかし翌6年末に再び金輸出禁止の結果、為替の急落を招き、また満州事変を契機として重工業の勃興、国内景気の上昇、また為替ダンピング、輸出補償法、重要産業統制法などの輸出振興対策により輸出が飛躍的に伸び、10年には世界第4位の貿易国となった。これに従い貿易構造にも変化が見られ、輸出の繊維製品の比率が低下し、重化学工業製品が急増した。輸出の機械類は従来の紡績機械から内燃機関、金属及び木工機械に重点が移り、輸入は原料品の比重が増大し、綿花、羊毛、鉄、鉱油の4品目で50%を越え、また非金属鉱物、鉱油、鉄、金属、化学品(おもにパルプ)など軍需産業に関連を持つ原材料の輸入量が増加した。また世界的な貿易縮小の傾向にあって日本は貿易を拡大させた。そして日本の満州進出は列強を刺激し各国からの規制措置を受けるなか自給自足経済圏の樹立が行われ、いわゆるブロック経済が形成されることになった。7年の日満ブロックにより満州の比重が高まり、6年で6.8%が11年には18.5%となり、アメリカの22.6%に次ぐ大市場となった。大陸別にはアジア州が依然と首位を保っているが、生糸の輸出不振からアメリカ市場の地歩が急激に低下し、これにかわり綿織物及び雑貨の新市場開拓の成果として中南米、アフリカ、大洋州が激増した。日満ブロックは13年には日満中ブロック経済形成となる。こうした情勢下で第3国貿易の縮小と円ブロック貿易への依存集中が行われた(昭和33年版『開港要覧』)。
年次別の動きを函館税関の『函館港外六港外国貿易概況』からみてみよう。昭和元年は前年比で輸出では170万円も減少した。昆布、鯣、塩鱒はいずれも減少したが、塩鱒は産地からの直送分が増えたために減少分の大半を占めた。この年は北樺太利権協定に基づき北樺太石油(株)が油田開発に着手しその建設資材の輸出が大きく伸びて50万円となった。輸入は米は3分の1と減少したが、豆粕(中国・関東州)が前年比の3倍、180万円も増加したほか、製缶機械の増設によってその原料となるブリキ(アメリカ)も大きく増加したことによる。翌2年は塩鱒を除き海産物はいずれも輸出減となり、中国への輸出も年々減少傾向を見せはじめた。ちなみに昆布は大正期から昭和期にはいると激減し、首位の座を滑り落ち、やがて函館からの昆布輸出はわずかなものとなってしまう。これは根室と上海との直航便(日本郵船や川崎汽船)が開設され、根室や釧路の産地貿易港からの中国への直輸出が増加したことが要因であった。対中国輸出に適した昆布は国内向けのだし用や細工品と違い、食用とするものであるために根室を中心とする道東産の薄葉が好まれた。とりわけ輸送手段を獲得した根室は上海直送を強化できたことも手伝い従来からの函館の問屋への委託販売から脱却して、そのシェアを拡大していった(『内外市場ニ於ケル本邦輸出水産物ノ取引状況』)。また函館の安達商店など函館の海産商が買い付けた場合にも産地から上海への積出が主流となっていった(昭和2年8月7・9日付「函新」)。 昭和3年には日本の山東出兵により日貨排斥が再燃した。とりわけ主要な輸出先の上海はその中心となったために、販路を反日運動が比較的弱い大連、漢口、天津等に求めたものの前年の60%以上も減少した。なかでも塩鱒の輸出は100万円以上と急減した。 またこの年から在函ロシア人によるロシア人経営漁場への漁業用品の輸出あるいはロシア人による漁獲物の輸入が普通貿易の統計に加えられるようになる。ただし、これは厳密な意味での国家間による決済行為を伴う貿易行為ではなく、漁業貿易と性格を一にするものであった。函館が種々の条件を満たして北洋漁業の基地を確立していたが、それはロシア側にも当てはまり、彼らの漁業経営のための物資補給基地として、あるいは収穫物の販売市場として函館にその機能を求めたのである。
さて昭和4年に入ると排日運動が終局を告げ、それまでの中国における輸入手控による在庫払底の反動として輸出が促進をきたし、さらに休航中であった上海定期航路の復活などの好材料に恵まれた。中国南部、フィリピン等の東南アジアと積極的な市場開拓による商圏拡大で輸出は急速に進展した。とりわけ主要輸出品の水産物は鯣、塩鱒を中心として激増し、前年比の倍増となり、また缶詰類も一気に200万円台に突入、2倍以上の増加をみせた。輸出総額は800万円台に迫り、大正14年の輸出記録に近づき、輸出入の総額でも1600万円と進捗をみせた。この年の輸入については原油・重油の急増とブリキが傑出している。前者は秋田・土崎の製油事業の拡張に伴いアメリカ産の輸入が増加したこと、さらに北樺太産の輸入も開始され、また函館に貯油タンクが新設されたことが大きな要因であった。後者は蟹工船漁業の進展に伴い製缶用原料としての需用増加に対応したものであった。 昭和5年には銀相場の低落による為替高騰で中国の購買力が減退し、水産物の輸出は大幅に減退した。ただし欧米輸出の主要品たる缶詰類は微減にとどまった。また輸入は国内不況が著しく事業縮小が進められた結果、重油等の燃料類や飼肥料の原料となる豆粕は急激に減少した。その後世界的な不況や関税障壁などから減少傾向をみせ、6年は輸出入額が600万円余と大正10年以来の低水準を示した。この年は世界恐慌の影響がより深刻となり、満州事変が勃発し、排日運動の激化によって輸出最盛期に取引が途絶するほどで、海産物輸出が激減状能となった。また各国の輸入制限から東南アジアおよび欧米ともに停滞状況下に置かれた。ここに輸出振興が叫ばれ、道内では貿易振興協議会が設置されたほか、航路延長、貿易品検査機関の設置等の打開策も進められた。
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