通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 3 外国貿易の様相 主要貿易品の交替 |
主要貿易品の交替 P360−P362 大正期の主要貿易品は昆布主体の海産物であったが、昭和期に入ると海産物主体という構造は変わらないものの、その内容に変化が見られる。昆布の比重が大きく低下して鯣と缶詰類が主要輸出品となるのである。鯣は函館の通商圏の拡大とも結び付いており、大正11年に昆布を越えて2位の輸出品となると昭和10年ころまで主要貿易品の一角を担った。鯣の主産地は函館をはじめ津軽海峡をはさんだ近隣の漁村であったが、順調なイカ釣漁の伸び、それに伴う生産増加によって輸出が伸びていった。鯣は函館からの直輸出のほかに神戸からも多額に輸出されていた商品であった。例えば大正5年では函館からの直輸出は57万円に対して神戸への移出は89万円、昭和元年では函館からの輸出は173万円に対して神戸への移出は273万円にも及んでいる。函館からの鯣の販路は中国がおもであり、北部・中部が消費市場であった。函館からの輸出は継続的なものとして続いていたが、イカの漁獲量が大正14年に激増したことで函館市場では価格の大暴落が起き、さらに国内の過剰在庫や市場不況とにより市場価格が回復しなかった。鯣の生産が拡大するなかで国内消費および中国北部・中部に限定された輸出のみでは販路に限界がみえはじめた。その打開策として大正14年に三井物産函館出張所は香港にも販路を伸ばし中国国内における市場の拡大、すなわち中国南部への消費拡大やさらにバンコクに鯣を試送したのをはじめサイゴンヘも輸出を拡大した。
缶詰類の新顔としては鰯缶詰、すなわちトマトサーディンをあげることができる。函館近海でのイワシ漁が盛んとなって缶詰製造業が成立したものであるが、昭和6年には試売輸出して3万円弱の実績をあげ、翌年には20万円台となり、一躍この事業熱が勃興した。この7年には函館に7、8か所の工場ができ、さらに森、砂原方面や青森にもできている。これまではアメリカから東南アジアヘ相当の鰯の缶詰が輸出されており、日本では生産コストの点でアメリカとの競争力がなかったが、為替の関係から逆転して日本側が有利となったのである(『産業北海道』)。 また国内では長崎、朝鮮でも生産されていたが、函館からのものがそれらを凌駕して蘭領インド、フィリピンなど東アジア市場やイギリスなどのヨーロッパ市場へも輸出された。当初は三井物産が輸出していたが、11年以降は日本鰮缶詰共同販売(株)が設立され、統制的な生産販売を行った(『北海道及樺太商品要覧』)。 このほかにフィッシュミールが登場する。フィッシュミールは昭和4年に函館市の産業課が斡旋して森卯兵衛商店経由でアメリカに試送したことに端を発している。肥・飼料として昭和5年にアメリカやドイツに輸出を開始すると新興輸出品として注目を集め函館市内の工場が続々と製造に着手した。昭和7年に製法上の欠陥があって取引が一時停止したが、輸出検査を実施することで信用を得てドイツを中心とした欧米市場において需要が喚起された。順調に輸出が拡大していき、昭和9年には函館フィッシュミール協会が設立され、また11年には工業組合が設立された。原料のイワシ粕の集散地である函館において天日製のミール事業が隆盛をみたものの噴火湾沿いに機械製造の大手資本工場が進出するようになり、さらにこれらの大工場は順次日本油脂(株)の傘下に入った。昭和13年になると魚粕が高騰し、函館市内の零細な工場は生産を停止せざるを得なくなり(「北海商報」第2巻第6号)、15年以降は函館からの輸出は途絶えた。 |
|
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |