通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第4節 戦間期の諸産業
1 函館の経済界

3 外国貿易の様相

戦後の貿易と日貨排斥

貿易通信網の確立

昭和恐慌下の函館の貿易

飛躍的な輸出増の波

主要貿易品の交替

中国商人の動向

貿易通信網の確立   P348−P352

 大正後半になると中国市場への販路拡大などの課題を持って斡旋所設立の動きが函館のみならず北海道庁も巻き込んだ形で生じるが、やがてそれは貿易振興のための情報収集機関の設立へと転じていく。いわば貿易通信網の確立に努める動きが顕著となるのである。その要因の1つに前述した「日貨排斥」の動きがあったのはいうまでもない。北海道の主要輸出品が海産物であり、対外的な輸出先が中国であることから貿易振興策が北海道にとっての地域課題となり、道庁もその対策に乗り出さざるを得なくなった。道庁は対中国貿易振興策を函館商業会議所に求めたが、会議所では上海に共同販売斡旋所を設置することを建議した。
 大正12年に小樽で開催された第3回北海道商業会議所連合会で函館商業会議所会頭渡辺熊四郎名で北海道海産物の対中貿易発展策として「共同販売所又は販売斡旋所の設置」を北海道庁に答申した。中国では北海道産海産物を輸出しても中国商人主導で相場が決められ直接に消費者と取引できない仕組みになっており、打開策として中国各地の輸入地に中国人ブローカーと契約を交わし日本の海産商の主導のもとに取引を行うための共同販売所か販売斡旋所を設置すること。そして商品の宣伝・販路の開拓、嗜好及び消費の状況調査、商況一般の通信等も兼させ、経費は地方費から補助すべきであるとした(大正12年5月『函館商業会議所月報』)。
 この建議案は上海駐在の政府商務官や華森洋行を経営する福泉栄造(函館商業学校卒業生)が評価するところとなったが、かつて市会議員の岡田健蔵が上海で商務官と会談した際に、すでに斡旋所設置の必要性を訴えていたという(大正13年11月1日付「函新」)。福泉は13年に帰国すると土岐北海道庁長官や函館海産商同業組合の幹部とも協議したが、さらに商業会議所を含んだ斡旋所設置の動きが活発化した(同年3月1日付「函新」)。福泉は中国の排斥運動も終息を告げ本道海産物の売れ行きも好調であり、この機会に海産物の斡旋所を設けると一層の販路拡張が実現し、かつ宣伝機関としても有効であると強調した。一方で本道の海産界の主導権を握る函館海産商同業組合は対中貿易不振の救済策として共同斡旋所の開設を望んでいた(同年8月18日付「函新」)。
 ちなみに中国へは函館からは塩鱒、鯣、貝柱、昆布、小樽からは塩鱒、貝柱、根室からは昆布がそれぞれ輸出されており、中国市場はひとり函館のみの問題ではなく、道内の他の貿易港にも大いに関連した。またそこに道庁が輸出委託会社的な組織に補助金を出すという動きもあり、函館の海産商が斡旋所設置派と委託会社の支援派とに二分する動きもあった。小樽は斡旋所設置に非常に積極的であったのに対して、函館は設置に消極的との指摘もあった(同年11月2日付「函新」)。それは函館が歴史的に上海と長く取引を続けており、それは国内の取引と同じく密接な関係を築いているため新たに斡旋所に依存する必要を認めない一団があったからである。一方中国市場に対しては新興勢力である小樽は、斡旋所を大いに活用したいという対照的なとらえかたをしている。こうした函館側の動きに対して、阿部覚治はその必要論にたち、11月3日付けの「函館新聞」紙上で「上海斡旋所問題」と題して次のような持論を展開した。函館の中国貿易は輸出品は海産物のみ、仕向港も上海に限られ、なんらの新生面も開かれていない。10年ほど前から塩鱒の上海輸出が盛んになった代わりに以前は函館から輸出されていた昆布が根室から直接輸出されるようになった。函館から上海への輸出は限界に来ているので大連、青島、漢口、香港、シンガポール方面への販路拡張に着手すべきである。函館近海の主要産物の鯣は全収穫の過半は神戸へ移出され、またサハリン・根室の棒鱈、北見の貝柱は函館商人の手で集荷されているが、やはり神戸へ移出され、ことごとく同地の輸出商の手を経て華南や南洋方面に輸出されているという。
 実際、阿部のいうように大正12年でみると函館からの鯣輸出は3万斤、100万円に対して移出は30万斤、1100万円と国内移送が断然圧倒している。阿部はそうした商権を函館商人が奪回し、かつ海外航路の開設、販路の海外への拡大のためにも斡旋機関の設置を支持している。また斡旋所を上海に置くことの意味は単に同地に輸入される海産物を斡旋するだけではなく地理的な優位さも大きい。大陸からの工業原料のために尽力すれば、函館の貿易界に一転機を画することになり、結果的に函館が海産物輸出港のみならず工業製品を生産し、輸出する都市へと脱皮することにつながるとしている。つまり函館にとっての上海を従来の海産物仕向港だけとするのではなく、工業原料の集散地と認識することを強調した。上海は国際貿易港として東アジアの拠点貿易港であるから函館がその機能に着目してそうした面の取引関係を持つことに彼の主眼点があった。こうした構想は実現しなかったが、その主張にはみるべきものがあった。
 大正13年8月に上海駐在商務官横竹平太郎が来函、関係業者と会見し斡旋所設置の意見交換をした。翌14年に入ると設置間題は進み、それに拍車をかけたのが函館海産商同業組合による「支那満鮮産業視察」の実施であった。同年3月に上海を中心にして海産物需給調査を行ったが、視察団は上海で福泉や横竹商務官と斡旋所についての意見交換を行い、帰国後には「産業経済ノ中枢タル上海ニ貿易調査紹介ノ機関ヲ設置」することを提唱した(大正14年『対支那輸出海産物に就て』)。その結果、函館海産商同業組合と函館商業会議所は北海道水産業の助長、対中国貿易の振興を策し、まず上海に海産貿易調査および取引斡旋機関の設置を道庁に稟請し、その実現に努力した。道庁は1500円の補助金を支出し、函館の海産商同業組合は500円、小樽海産商同業組合、根室物産商組合の同業者も応分の負担をして、15年1月に福泉栄造を主任に迎え、上海貿易調査所として発足した。
 開設後間もない1月29日には福泉は上海における海産市況や為替相場の概況を報告するなど、中国市場の動きに関する情報を逐一送り、それが函館の地元新聞でもしばしば取り上げられている。ちなみに昭和2年に同所の取り扱った調査事項を列記すると、(1)動乱を主因とする対中貿易の打撃、(2)中国市場の塩鱒需要状況、(3)中国における缶詰の販路拡張計画、(4)日貨排斥運動の現況、(5)アメリカ産鯣の入荷状況、(6)北海道水産試験場製造品試売宣伝等であった。このように調査所は函館のみならず北海道にとっても現地の貴重な情報を供給した。なお昭和2年8月からは北海道庁が主体となり運営することになり、名称も北海道貿易調査所と改めた。福泉は引き続き新調査所の主任の位置に留まったこともあり、経営主体は変更したが、その機能は継承されていった。貿易調査所が生きた現地の情報を提供したということもあり、昭和3年には函館市や商工会議所(この年に商業会議所から改称)によって香港に設置されたほか、北海道庁も7年には大連、10年にはハルビンやシンガポールに貿易調査所を設置した。
 また函館市は昭和に入ると水産加工品貿易を促進するために海外市場の要地に商況や取引事情を調査する調査嘱託員を置き、あわせて試製品の試売会などに積極に取り組み、通信網の一層の拡充を図った。ちなみに昭和9年ではロサンゼルス、マニラ、ブエノスアイレスに通信員を置いていた(『近代函館』)。

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