通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 3 外国貿易の様相 中国商人の動向 |
中国商人の動向 P362−P368 外国貿易の担い手については、貿易品や相手国によって多種多様であるが、ここでは函館にとりもっとも重要であった中国輸出に活躍した在留の中国商人を軸として関連する日本商人も若干関連させて述べる。大正初年における函館からの輸出ルートは、直接の輸出と横浜・神戸経由のものとに二分される。直輸出は在函の中国商人が産地から直接買付けするか函館の海産問屋から購入して輸出する場合(函館の海産商は産地と委託・買付により集荷)と、函館の海産商が横浜や神戸の中国商人(彼らは本国の上海や天津にネットワークを持つ)から発注を受け函館から中国へ輸出する場合とがあり、こうした方法は全体の80%に及んだ。横浜・神戸経由は、函館の海産商が両地の日本商人と委託契約をして同地の中国商人に売却され、その上で輸出された(『輸出海産貿易』『産業調査報告書』第18巻)。函館は明治時代から横浜との関係が深かったが、大正時代に入ると神戸が対中貿易の中心市場となり、それに伴い函館から神戸への中継貿易も盛んになる。特に鯣は函館から大量に移出され、神戸経由の輸出も顕著なものとなった。
大正3年には「清商連盟休業」という事件がおきた。張芳[彼は張尊三の子]が水産製造取締規則違反で罰金を言い渡されたことに端を発したのであった。これに対し本国の本店から休業するように指示があり同盟休業に入った。函館では横浜や神戸と違い輸出品に二重に手数料がかかり競争ができないという理由からであった。休業は函館の海産商にとり死活問題であった。そこで山本巳之助、佐々木忠兵衛、加賀与吉、土屋一郎らの有力海産商は函館区や渡島支庁に働きかけ、また商業会議所の斉藤副会頭や日本郵船支店長の甲野荘平等が仲介役となり規則全廃にあたり同盟休業はかえって不利になると説得した。中国商人も利害の一致する海産商と歩調をあわせて規則全廃運動を行うことを了承して同盟休業は短期間のうちに解決されたという(大正3年2月1日「函毎」)。 在函の中国商人は、上海の本店から派遣されるものが多く、ほかに代理店や共同組織による合資会社形態のものも一部に見受けられ、本国の輸入商と提携して手数料収入を得ていた(『産業調査報告書』第18巻)。上海において日本の海産物を扱う輸入商は「海味号」、そのなかでも函館からの輸入品を扱うものは「箱荘」と呼ばれていたが、これらの輸入商に源記、裕源成、震康など7社があげられ、そのうち数社は函館に支店を置いていた。さらに昭和初年には函館に支店を置くものが拡大しており義記、裕源成、同和隆、震康、恒発など10社ほどあった(上海社会科学院経済研究所等編著『上海対外貿易』)。彼らは同業組織を作っていたが、前2社のそれぞれの函館経営は、潘連夫、張尊三といった有力者であった。 明治44年に、大倉組がはじめて塩鱒の直輸出を実施したが、この時に函館の加賀与吉、森卯兵衛らの海産商が委託販売の方法をもって同社と契約している。中国商人と取引をした日本側の貿易商は海産物売込商あるいは売問屋と呼ばれており、大正初年では安達支店、橋本金太郎、松田季蔵、小杉良吉、藤尾支店、加賀与吉、保田七蔵、佐々木忠兵衛、浜根商店、平出喜三郎、貫名商店、本庄合資会社、武内時三、藤野支店、八幡三次郎らが代表格であり、函館における海産商の主力メンバーでもあった(『輸出海産貿易』)。 このほか三井も中国、香港、東南アジアへ、また三菱による香港輸出など大手商社による試みもあったが、昆布、鯣などは依然として中国商人の手を経なければ輸出先では取引しない習慣であった。したがって函館の海産商が直輸出を試みるにしても売捌き先を見いだすのは容易ではなく、新販路を開拓するまでは在函中国人と取引するしかなかった。 ところが大正4年に海産商同業組合設立に際して組合加入問題が生じ、中国商人は函館での取引を一切開始しないことに決定した。このため函館の貿易商が打撃を受けるだけではなく産地の生産者も困窮した。産地生産者は函館の海産商に荷物を送れば売買成立にかかわらず資金の融通を受ける習慣となっていたからであった。 これは両者だけの問題ではなく函館の地域経済に及ぼす影響は大きかった。同業組合加入問題で加入を希望する中国側は青森に移転するなどの強行手段に訴えようとした。さらに4月には裕源成号、豊大号、震康号、予祥号の各支配人は店員と上海に帰省した。例年彼らは一度は帰国して、本店に営業内容を報告しているのであるが、この時ばかりは、こうした行動は加盟問題への示威行為と受け止められていた(同年4月14日付「函毎」)。前年の休業事件の延長線上にある出来事であった。 函館の中国商人は他方では横浜や神戸の同郷人とは競合する関係にあった。ところが中国貿易の基地として有力であると着目した横浜の中国人は函館に支店を移すなどの動きをみせはじめた。横浜の中国商人・東余号、新和号が函館に出張店を開設するために来函、取引に着手した。これは函館が対中海産貿易港として有望であることを反映したものである。この結果10社に増えたが、うち5社は張尊三の一族(大正5年2月17日付「函毎」)とあり、彼の勢力の大きさが分かる。 大正7年1月14日付け「函館新聞」には、新年祝賀会に集まった中国商社を列記している。震康号、予祥号、同康号、永源泰号、裕源成号、新茂成号、益豊永号、義記号などの関係者が50名近く参集している。彼らは前の時代と同じく仲浜町を中心に居住している。しかし同年4月21日付け「函館新聞」には「支那商人振はず」と題した記事があるように、日本商人が直接中国での貿易に成功するようになり、中国の国内事情も彼らには不利に働き、在函の商社のなかには本国に引き上げる動きもではじめていた。前述したように日貨排斥も手伝い本国での日本製品不買運動は一方では在函の中国商人にも大きな影響を及ぼしたのである。 在函の中国人は大正元年に91人が居住していたが、10年には69人と減少している。こうしたところにも日貨排斥の影響が出ている。10年ころから日本側の大手・日華貿易、大倉組、三井が再び上海貿易を開始し、好調を示した。しかし13年を契機とする大暴落で一頓挫を来した。この間、天津方面は神戸の中国商人、上海、長江方面は函館の中国商人が担当して彼らのまきかえしが図られた。同年の函館税関の調査による海産物を扱う重要貿易業者として三井、鈴木商店、加賀与吉、森卯兵衛、渡辺富吉と中国商人では義記号、震康号、裕源成号ら10社があげられており、いずれも日貨排斥の荒波をくぐり抜けてきた商社であった(大正13年12月26日付「函新」)。大正13年を頂点とし、昭和5、6年にかけての急激な昆布相場の暴落により函館の中国商人の商権を失いかねない状況に追い込まれた。 また当時函館や神戸、横浜の中国商人の海産物貿易は上海に委託輸送をしていたので、彼らの被害も大きく、同時に根室や釧路の昆布産地から函館へ委託出荷するうえでも大きな障害が発生した。こうして函館における昆布商権の根底が危機に瀕し、その商権は根室と上海に分散され取引形態は買い付け注文へと転じていき、函館からは昆布輸出の積み出し港という機能は失われていった。
ところで目を中国へと向けてみよう。大正後期で中国に輸入される海産物は7万から800万両(テール)で、そのうちの5、60%は上海へ輸入された。日本からは半数前後が輸出されており、やはり上海が中心である。このころになると以前から輸入されていた昆布、海参、鱶鰭等は「旧海産物」、そして大正期から顕著となった塩鱒・鱈などの塩蔵魚は「新海産物」と呼ばれている。前者は上海において「函館荘」(前述した「箱荘」と同義)の手により90%が輸入され、販売されていた。函館荘に属する輸入商は裕源成、義泰、恒発、同和隆、東盛、吉泰号、義記、源茂、震康らがいるが、彼らの多くは函館に支店を置いている。ほかに三井洋行、泰新洋行、日華洋行などの日本商社も扱ったが、彼らは輸入額の10%に過ぎない。 ところが「新海産物」のほうは日本商社の独占状況となっており大倉洋行、三井洋行、泰新洋行、日華洋行、義泰洋行が輸入を行っていた。「旧海産物」に関していえばその取引は従来ほとんど居留地貿易で日本商人の直輸出は失敗に終わり、依然として中国商人独占の姿であった(大正14年・函館市役所勧業課編『対支那輸出海産物に就て』)。 昭和期に入り再燃した日貨排斥問題は函館在住の中国商人にも深刻な影響を及ぼしはじめた。上海の排日運動は根強いものがあり、輸出業者にとり排日による取引への打撃は日常茶飯的なものであった。海産物は中国の常食であり、排日があっても従来も輸出されているし、塩鱒は露領産であるという理由で排日の影響はきわめて少なく、輸出は多少は減少するが楽観視できる(昭和2年6月22日付「函日」)といった論調の記事も散見されるが、実際は彼らの貿易取引に少なからぬ影響を与えた。日貨排斥運動が起こり海産物取引が休業状態になると、上海貿易調査所から函館海産商同業組合あてに情報が入り、中国商人側は海産物の取引に食指が動くものの、排日団の危害を恐れて新規取引はないが、現在は海産物取引の閑散期であり、他の卸輸入業者に比べて打撃は少ない。ただ日貨排斥がなお2、3か月持続すると日本の対中貿易は困難な事態となろうと予測している(昭和2年7月26日付「函日」)。 上海方面への海産物は日貨排斥がやや緩和され出貨の傾向をたどり在函中国商人も中国国内の混乱や日貨排斥の沈静化を見越して根室方面の買付けを行うなど取引が再開されている。香港や東南アジアに輸出する昆布、鯣、貝柱、開鱈の貿易は神戸の中国商人に握られており、こうしたことから市内の貿易関係者は神戸の中国商人に本道からの直接輸出を行うように働きかけるといった動きをみせている(同年9月7日付「函日」)。 昭和3年は中国との経済的な断絶により取引上、大打撃を被った。しかし翌4年2月27日の「函館新聞」には上海貿易調査所からの通信を紹介して、同地における新海産物輸入実績と旧海産物実績とは反比例し、本道からの輸入品として重要な長切昆布、貝柱、海参、干鯣の上海輸入は中国商人が独占しており、輸入額の90%は中国商人、邦商は10%に過ぎず、そのおもな原因として「湘荘」と呼ばれる函館の在留中国商人が多年にわたり本道貿易品の生産状態や取引慣習、上海直輸出に対する研究を行っていること、さらに専門的な知識を蓄積し、上海の輸入問屋との連携も密接で、本道上海間の直航船を利用して入荷調整を行い、市価の維持に独自の商策を行っていることにある。日本商人は取引上の経験や連携に著しい差がある。新海産物の塩魚の商権を日本商人が掌握していることからも旧海産物も排日貨対策などを本道の当業者が行うことを指摘している。 ところで昭和6年に勃発した満州事変以降は在住中国人のうち海産物輸出に従事するものはわずかとなり、中国輸出の減少に伴い海産物貿易に従事する中国人も漸次帰国し、昭和10年ころでは「支那商三戸ガ合同シテ僅ニ一個ノ店舗ヲ維持経営スル程度ニアリ」(『函館市ニ於ケル水産物ノ配給集散状況』)という状況であった。 |
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