通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 就学者の増大 |
就学者の増大 P189−P190 本巻の教育に関する記述は、紙幅の都合もあり、特に、区民ないし市民の全体を対象とする国民教育としての、初等教育を中心に進めることとする。明治33年の第三次小学校令によって、我が国の義務教育は、制度の上でその構成要件を整え確立をみる。保護者に対する就学義務が明確に規定され、市町村の学校設置義務がうたわれ、雇用により就学を妨げない規定が盛り込まれ、授業料不徴収が定められるなど、就学の社会的保障義務も規定されて、就学の条件は飛躍的に整えられる(花井信「日本義務教育制度成立史論」『公教育制度の歴史的形成』所収)。北海道では、第三次小学校令の公布に先立ち、明治32年に道庁訓令第633号「教育施設ニ関スル件」によって、校舎の拡張と教員待遇の充実を促し、同36年の庁令第116号「学齢児就学ニ関スル規則」は、さらに就学督励の具体的手順を示した。こうした督励の結果、全道および函館の学齢児就学率は表1−55にみられるように、日露戦争時に、ほぼ全国水準に達することとなった。 就学率の増大は、在籍児童数の増加につながり、年々数百人の増加をみている(表1−56)。在籍児童数の増加は学級数の増加をもたらし、教員および教室の確保のための財政負担の増大につながっていく。在籍児童の増加は、毎年1校ずつ小学校の新設を要するほどのものであったが、同40年の大火によって、さらに財政負担が加わったこともあり、この時期における函館の小学校の数は、表1−56にみられる通り、むしろ減少しているのである。大火後に復旧がかなわず、廃校となった私立学校があったためである。こうした事情によって、函館の小学校は、全国の実態とは異なり、児童数が1000人前後の大規模校となっていったことが明らかである(表1−56)。しかも、この時期以降、時によって学校の新設に伴って、1校当たりの児童数が減少することがあっても、結局一時的なもので、函館の小学校の大規模化は、戦前期を通じて変わらなかった。 学校の大規模化は、1学級当たりの児童数の増加につながり、頻繁な通学区域の変更を伴なうため、教育効果の点から後に区民の間で問題にされるようになっていくのである。
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