通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 小川合名会社と坂本作平 |
小川合名会社と坂本作平 P179−188
まず、小川が初めてニコラエフスクに渡航した当時の日本人の出漁状況を見ておこう。日本人が最初にこの方面に出漁したのは明治25年のことで、この年、鈴木於菟平(通訳、後東京外国語学校教授)が、ニコラエフスクのロシア人漁場で、鮭鱒350石を漁獲・加工して函館に帰ったことが記録されている(倉上政幹「薩哈嗹州漁業調査復命書」第1冊、大正9年)。小川がこの地方へ出漁したのはこの3年後のことであり、ニコラエフスク出漁の中ではごく早い時期のものであった。 『函館市史』通説編第2巻でも述べたように、当時アムール河に遡上する鮭鱒資源は極めて豊富であったが、地方住民の自家食糧、畜犬の飼料として利用されるのみで、商業的には全く価値がなかった。このような状況の下で日本人漁業者は、直接鮭鱒を漁獲・加工して、ただ同然の塩蔵鮭鱒を大量に持ち帰ることができたのである。 小川が初めて出漁した28年に、ニコラエフスクに渡航した船は8隻の帆船であったが、現地の様子が明らかになって出漁者は次第に増加し、30年には多数の汽船も加わり45隻(帆船32隻、汽船13隻)に達した。さらに33年には85隻(帆船64隻、汽船21隻)と急増し、出漁船舶は5年間に10倍に増加した。 このような日本人漁業者の進出に触発され、ロシア人の中にも自ら漁場経営に乗り出す者が現れたが、同時に日本人漁業者の大量進出を危惧したロシア当局は、33年にアムール河下流漁業仮規則を公布して、河川内の日本人漁業の禁止とロシア人漁場における日本人漁夫の使用を禁止するなど、日本人の進出を抑制しようとした。だが、当時は鮭鱒の販売市場が日本に限られていたので、日本人を全面排除することは、ロシア人漁業家の販売市場を失うことにもなり、そのため日本人には、ロシア人から鮭鱒を買い付け、製造して日本に輸出することを認めた。 しかし、この頃のロシア人漁業は未熟で、漁獲作業においても日本の技術と労働力が必要とされ、このため、日本の出漁者は、共同経営、あるいは買魚、製魚を名目にして事実上漁獲作業にも従事していた。日本人漁夫の使用禁止に対しては、一部ロシア人漁夫を雇用したが、多数の日本人漁夫を船員名義で送り込み労働力を確保した。しかし、ロシア人漁業家の台頭とロシア当局の規制が強化されるようになって、日本人の漁業は買魚事業に転換していく。小川の場合も当初は直接漁場の経営に当たっていたが、ロシア当局の規制実施後は買魚に切り替え、日露戦争開始時まで継続している。日露戦争前の小川のニコラエフスク買魚事業の経過を挙げておく(「小川弥四郎年譜」大正7年、以下「年譜」)。 明治二十八年 坂本作平(後小川合名の代表社員)を伴い帆船得撫丸(傭船)でニコラエフスクに渡航して買魚事業を始める。 この製魚区には2種類あり、1つはロシア国財庁が管理する製魚区と今1つはニコラエフスク市庁が管理する市有製魚区である。官有製魚区は、国財庁の競争入札で租借することができるが、市有製魚区では、日本人業者は、漁区を落札したロシア人漁場主と買魚契約を結び、その後、ニコラエフスク市庁に、借区料100ルーブルを納入して製魚区の権利を取得することができた。 官有製魚区の入札では、日本人相互の競争による落札価格の高騰を防ぐため、露領沿海州水産組合はニコラエフスク支部を設けて入札参加者の調整を図ったが、実際には、製魚区の入札やロシア人漁場主との買魚契約などの業務は、現地ロシア人にも信用の厚いニコラエフスク在住の日本商人(島田元太郎、永野遠)に委託していた。委託された日本商人は製魚区の入札に参加するとともに、漁場主と買魚契約を結び、実際の製魚区経営者の買魚を仲介した(鍋島態道「露領沿海州ニコラエフスク方面水産業調査」明治42年)。 戦後のニコラエフスク買魚においては、39、40年は漁業協約成立前のことでもあり、暫定的に戦前の方法が踏襲された。39年小川の「年譜」には「ワッセ漁場にて買魚を為す。魚属豊富なり」とあり、小川はニコラエフスク市下流漁区のワッセ漁場で買魚事業を再開した。島村の復命書には、小川の所有帆船平安丸(116トン)が、鮭7万2600尾、鱒4360尾、筋子20個を積んで函館に帰港したことが記載されている(「島村復命書」)。 翌40年もニコラエフスクに平安丸を送って買魚事業を続けたが、同時に、年譜には「帆船貞一丸長明丸勘察加西海岸○○岸に出漁す」とあって、新たに購入した2隻の帆船で初めてカムチャツカ西海岸に出漁している。ただこの年のカムチャツカ出漁は、漁業協約発効前のことであり、仮協約によらない自由出漁の形をとったようである(「年譜」と「島村復命書」に出漁の記録があるが、同年の漁区経営者名簿には記載されていない)。これ以後、小川は、ニコラエフスク買魚とカムチャツカ出漁の両事業を平行して続けていくが、事業の主体を、次第にカムチャツカ出漁に移していく。 漁業協約発効後の41年には、島田元太郎名義のニコラエフスク市下流ワッセ岬製魚区で塩蔵鮭鱒の加工を行い、前年度購入した汽船神祐丸(257トン)を使用して夏鮭804石、秋鮭659石、鱒163石を函館港に輸入した(「ニコラエフスク帝国領事館報告」明治40年11月『殖民公報』明治42年第47号所収)。この年も、「年譜」には「勘察加キシカ南方四露里漁場を経営し、平安、長明、貞一の三捜出漁す」とあり、カムチャツカに出漁している。但し同年も、漁区経営者名簿に小川や関係者の名は見当たらない。だが前記「キシカ南方四露里漁場」の租借者が竹村醇多であり、同人名義の漁場を使用したものとみられる。 翌42年は、女婿坂本作平の名義で、カムチャツカ西海岸の漁区を取得して本格的な漁場経営に着手した。すなわち、「キシカ四露里漁場は露人の為めに奪取せられた代場として同八露里を獲得し前年の通り出漁したり」(「年譜」)とあり、同年の漁区経営者名簿にも、坂本名義で西カム・ポリシェレッキー第10漁区に、帆船3隻、船員28名、漁夫25人で出漁したことが記録されている。ただ、不幸にも、この出漁では漁場上陸時に伝馬船が転覆して、漁場監督、船長、水夫3名、計5名の人命を失っている。 43年は、「勘察加は、キシカ四、八露里二箇所を経営し、…出漁船は帆船三艘の外汽船神祐丸一回航行す」とあり、経営漁区は2か所。翌44年には、「キシカ二箇所の外オゼルナヤ漁場を開始す」とあって、さらに西カム・オゼルナヤ漁区1か所を加えて3か所の漁場を経営した。45年には西カム・ムイソウオイ漁区1か所を併せて経営漁区は4か所となり、カムチャツカ漁場経営の規模拡大を進めた。 44年に取得した西カム・オゼルナヤ第3漁区は、カムチャツカ西海岸では屈指の紅鮭の好漁場であり、この年西海岸では第2位、2982石の紅鮭を漁獲した。しかし、紅鮭は当時の日本人の嗜好に合わず、国内市場では安値に仕切られていた。こうしたなかで、大正4年5月、坂本は、堤商会と紅鮭供給契約を交わし、堤商会に紅鮭を缶詰原料として提供したが、さらに同年10月、同漁場の賃貸契約を結んで漁場の経営権を堤商会に譲渡した。 この漁場は、後に堤商会のドル箱漁場になるわけだが、堤商会は、この年函館に最新の製缶工場(A・C・C缶)を建設して、西カム・オゼルナヤ漁場における本格的缶詰生産に踏み切っている。堤商会としては、絶好の漁場を手に入れたことになる。なおオゼルナヤ漁場の賃貸契約書が残されているが、当時の露領漁業における漁区の権利関係を知る上で貴重と考えられるので紹介しておこう。 漁業権賃貸及動産売買契約証書 戦後のニコラエフスクの買魚事業は、当初は渡航する船舶が急増して、明治43年には帆船52隻汽船81隻(総トン数3万6404トン)に達し、鮭鱒の輸入量も33万6280石に増加して一時期隆盛を極めた。しかし、戦後の買魚事業では、ロシア人漁場主の台頭と国内の輸入鮭鱒の過剰によって事情は一変した。 まずロシア国内では、戦時中鮭鱒が軍事食料として多量に供給された結果、国内消費が拡大し、ヨーロッパ市場に出荷されたイクラの販売が好調で、沿海州の鮭鱒に対する需要が増大したこと、さらにシベリア鉄道の冷蔵輸送の開始と運賃の軽減などによる輸送条件が改善されたため、沿海州鮭鱒の産地価格は著しく上昇した。他方日本国内では、戦後沿海州に加えて、カムチャツカ産の鮭鱒が大量に輸入された結果、国内市場における鮭鱒の販売価格は大幅に下落した。 この間の買魚事業を露領沿海州水産組合の報告書は次のように述べている。「戦後ノ初年ハ彼我漁業者ノ元気旺盛ニシテ露国業者ハ自己指定ノ価格ニ非レハ本邦漁業者ノ買付ニ応セサラントシ本邦漁業者ハ価格ノ高低ニ不拘唯々買付石数ノ多カラムヲ望ミタリ斯ノ如クニシテ遂ニ価格ノ上騰ヲ招キ延イテ漁場租借料ノ暴騰ヲ醸シ漁場代愈々暴騰シテ魚価益々上騰ノ必要生セリ然ルニ前年(四十二年)来本邦内地ノ魚価暴落シ従来ノ買付価格ヲ以テセハ到底損失ヲ免レサルコト火ヲ見ルヨリ明ナルニヨリ本邦漁業者ハ露国漁業者ニ向テ価格ノ低減ヲ求メ若シ応セサレハ結局休業ノ覚悟ヲ持シ就中前年来締結セル不利ナル契約ヲ破壊センカ為ニ違約金一万五千留ノ提供ヲモ辞セス漸クニシテ低減セル価格ニヨル新契約ヲ結ヘルモノヲ出セリ」(『業務成績報告』明治43年)。 しかし露国漁業者の中には、「其要求ニ応セス果テハ数十年来ノ邦人トノ関係ヲ捨テテ全ク生魚売渡ヲ拒否シタル者」も出るに至った(同前)。 また「本邦漁業者ノ要求ヲ容レタルモノ素ヨリ有リタレトモ出来得ル丈ケ比較的有利ナル各種ノ露国式製魚ニ充テテ其ノ残余ヲ本邦人ニ売渡ス者ヲ最多数」となり、「斯ノ如クシテ或ハ全ク生魚ノ売渡ヲ拒絶シ或ハ其ノ売渡高ヲ制限シタルヲ以テ本邦人ノ買付額ハ従来ニ比シ著シク削減セラレタリ」という状況になったのである(同前)。 44年、小川の「年譜」には「ワッセ漁場は一手にて全部の魚を買取りたると生値段引下げの為め成績優良にて約四万七千円の純益を収めたり」とある。この年は、ワッセ3漁場(2、12、13号漁区)の漁獲物を一括買取り、値下げ交渉にも成功して利益を上げている。しかし、45年には、「ワッセ漁場に日本労働者使用を禁止せらる」。 そして大正2年には、「ニコラエフスクは将来見込なきを以て残品整理の為坂本一名出張す」とあって、この年を最後にニコラエフスク買魚事業を中止した。この大正2年、ニコラエフスク買魚に渡航した船舶は、帆船12隻汽船26隻(総噸数8412トン)であり、3万7090石の塩鮭鱒を輸入した。そして、大正5年には、帆船1隻汽船1隻(総噸数280トン)となり、127石の鮭鱒を輸入して、ニコラエフスク買魚事業の幕を閉じた。 なお、小川弥四郎の個人経営として続けられてきた前述の事業は、44年2月に設立された小川合名会社に引き継がれた。同社の初代の代表社員は小川弥四郎であったが、大正3年小川の死去に伴い坂本作平が代表社員に就任した。 |
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