通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 露領漁業出漁者の系譜 *1 表1−52の「昭和40」は「明治40」の誤植のため訂正した |
露領漁業出漁者の系譜 P167−P172 日露漁業協約成立後の最初の出漁となる明治41年には、全国55名の漁業者が出漁している。この後増加して、44年には107名と最も多くなり、大正年間に入っても70から90名の漁業者が出漁していた。初期の出漁者は、北海道、主に函館、および新潟富山など北陸日本海沿岸地帯の出身者が多く(表1−50)、かつての北前船船主や、北海道、樺太漁業に関係してきた海産商、回船業者、および沿岸の網元などの個人業者が主体になっていた。函館における露領漁業者の出漁状況が明らかになるのは、漁業協約が発効した明治41年以後のことである。前年の40年においても仮協定の下に日本人漁業者35人が出漁しており、函館の漁業者6名も含まれていた。だが同年の出漁者には、従来のロシア人名義、あるいは買魚の名目で出漁した漁業者もおり、その実態は不明である。 またこの時期の露領漁業関係者には、海面の租借漁区に出漁した漁業者のほかに、日本人の漁業が禁止されていたアムール河流域で(ニコラエフスク方面)ロシア人漁業者の漁獲物を買付けて塩蔵鮭鱒を加工する買魚業者がいた。もともとわが国の露領漁業は、沿海地方からアムール河流域の、ニコラエフスク方面に拡大し、日露戦争後は、主力がカムチャツカ半島に移動しているが、日露戦争後においても、ニコラエフスク産鮭鱒の輸入量は、カムチャツカ産の輸入量を上回っていた。特に函館とニコラエフスク買魚との関係は密接で、早い時期から買魚船舶の大部分が、函館港を根拠地としたほか、当時の函館の有力な露領漁業者には、ニコラエフスク買魚の関係者が多い。 初年度となる明治41年函館の露領漁業出漁者は14名であったが、翌42年は26名に増加した。43年には2名減って24名となったが、44年には再び26名となり、露領漁業初期の出漁者は出揃っている。これら漁業者の租借漁区数は41年が26か統、44年には58か統に増加している。これは出漁者が増えたことによるもので、出漁者の平均漁区数は、1.6から1.8か統で小規模な個人経営で占められていた。出漁先は、初年度には、カムチャツカ東海岸が多いが、43年には、カムチャツカ東海岸への出漁者が半減して西海岸への出漁者が増加している。44年になると出漁者と租借漁区の7割が西海岸に集中している(表1−51)。 ニコラエフスクの買魚者は、41年が10名、42年には18名に増加した。しかし次第にロシア人漁業者との競合が激しくなり、買魚を中止して、カムチャツカヘの出漁に切り替える者も現れていた。
これら漁業者の出漁継続年数をみると、明治41〜43年から始めた32名の漁業者のうち、大正6年まで継続し た者は10名で、当初の出漁者の3分の1に減っている。この出漁を続けてきた10名の者には、樺太漁業の経験者と、樺太漁業関係の海産商などの商人資本家が多いが、出自不明者(投機的漁業者)は、全員、始業後数年で露領漁業から退出している。このような状況は、両者の資本蓄積、あるいは資金調達力の差異によるものとみられるのである。露領出漁には、漁夫の賃金や漁船、漁業資材など漁業経費がかかるほか、ロシア側に支払う漁区租借費や漁業資材、漁夫、漁獲物を運ぶための自前の帆船を調達しなければならないが、これらに要する多額の資金は、一部の者(商人資本家)を除いて、函館の海産商、米穀、漁網、その他荒物商など、商人資本の仕込金融によって賄われていた。先に上げた出自不明の出漁者は、ほとんどの者が仕込資金に依存していたものとみられるのである。
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