通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 缶詰生産の成功 |
缶詰生産の成功 P166−P167 このような状況の下で、明治43年堤商会が、東カムチャツカのウスチ・カムチャツカ漁場において紅・銀鮭缶詰の生産を開始。そして大正2年に、カムチャツカ西岸オゼルナヤ漁場に、アメリカ・キャン・カンパニー(A・C・C)から最新の自動製缶缶詰機械を輸入して本格的な缶詰生産に踏み切った。最新の缶詰機械は、原料魚の裁割から箱詰め梱包までの全工程がほぼ完全に自動化されており、生産能力が、1分間に1ポンド缶48個入り2箱強(紅鮭30尾)という高性能を誇っていた。この新鋭機が導入された大正2年の堤商会オゼルナヤ漁場では、豊漁と重なり、前年の4.8倍の2万8561箱を生産した。 この缶詰生産の成功は、従来の手工業的性格の露領漁業が近代産業に転換するための技術的契機とされるもので、この意味で露領漁業における産業革命とされる所以である。さらに新工場で生産された鮭鱒缶詰(サニタリーキャン)は、国際的には最優秀品の評価を受け、国際市場に販路を広げる道が開かれた(『日魯漁業経営史』昭和46年)。 ちなみに堤商会は、明治45年10月、それまで新潟にあった本店を、北洋漁業の根拠地となっていた函館区仲浜町に移し、「堤商会本店事務所」を開設した。
そして堤商会が本格操業を始めた大正2年には、一井組(大正3年、日魯漁業(株)となる)がカムチャツカ東海岸ウスチ・カムチャツカ漁場に進出して法人経営は3社となり、このほか個人の5企業が缶詰生産を始めて、生産量は一挙に前年の3.2倍の8万1518箱に急増した。この後は、各企業が競って缶詰工場を増設した結果、大正3年の不漁年を除いて、カムチャツカにおける缶詰生産量は飛躍的に増加して、大正6年には25万8700函に達した。これら缶詰企業の中では、堤商会、輸出食品、一井組の3社が群を抜き、大正2年において3社の生産量は全体の87.3%、大正4年以降では95%以上のシェアーを占めている。
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