通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 塩蔵鮭鱒から缶詰へ |
塩蔵鮭鱒から缶詰へ P164−P166 漁業協約成立後の初年度の出漁においても、混乱と変則的状況が続いたが、41年には、正規の漁区租借者54名が、5370名の従業員で117漁区を経営し、1万3400トンの鮭鱒を漁獲した。この後の露領漁業は、大正6年3月のロシア革命勃発までの10年間は、出漁規模は拡大して、大正6年には、出漁者76名、従業員1万2689名で漁区213か所、漁獲量も6万6591トンと第1回目の出漁時の5倍に増加した(表1−48)。
またこの期間の特徴とされることは、鮭鱒の缶詰生産が軌道に乗り、露領漁業が近代産業に転換するための技術的基礎がつくられ、これを基盤に、それまでの個人企業家に代って、産業資本としての漁業企業(法人企業)が露領漁業においても主導的地位を占めるようになったことである。 すなわち、日露戦争前から明治末期に至る露領漁業においては、漁獲された鮭鱒はほとんどが国内市場向けの塩蔵魚に加工されてきた。ところが、カムチャツカ漁場やアムール河流域地方からの輸入が増加するようになって、国内市場における塩蔵鮭鱒が過剰になり価格が暴落して、販路の拡張が求められるようになった。 また当時カムチャツカ産の紅鮭は、国内市場では、魚肉が赤いことで敬遠され、一般には白鮭や銀鮭、とくに農山村地帯では、塩鱒が喜ばれたという。カムチャツカ産の紅鮭を、いかに有利に売りさばくかが大きな課題になっていた。 |
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