通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第1章 露両漁業基地の幕開け 露領漁業家・小熊幸一郎 |
露領漁業家・小熊幸一郎 P175−P179
小熊は、明治38年、日露戦争の勃発で休漁を余儀なくされ、将来の出漁も危ぶまれていた露領サハリンの優良漁場5か所を、戦勝を予想して5万円で買い取り戦争終結を待った。戦後、予想が的中して、39年の最初の出漁では、各漁場ともに大漁で、一気に投資を回収して毎年5万円以上の利益をあげた。この後もこの樺太漁業の蓄積を基礎に、従来の海陸物産の委託販売や資金貸付業、不動産業に加えて、新たにカムチャツカ漁業にも進出して一大漁業家としても活躍した。ここでは明治末期から大正初期における小熊商店の露領出漁の事業経過をみておこう。 小熊幸一郎が、初めて露領漁業(沿海州)に進出した時期は不明であるが、先に挙げた「島村復命書」には、明治39年に小熊幸一郎名義の帆船2隻(1隻は小熊の所有)が、カムチャツカに渡航して、8万1639尾の鮭を函館に運ん だこと、また小熊の自叙伝には、明治40年、宮川豊吉、杉野三次郎らと共同でニコラエフスク漁場の経営に当たったことが記載されており、彼は、早い時期から、露領漁業にも関心を持っていたことが窺われる。そして日露戦争後は、41年と42年にカムチャツカ西岸の1漁場を経営し、その後漁場の拡大を図っている。 当時、沿海州やカムチャツカ方面への出漁には、運搬船として帆船が使用されていた。帆船は、漁夫や漁網、漁業資材、食塩、米味噌など、漁場で必要とする一切の物資を運び、漁場到着後は、切り上げまで現地に係留され、乗組員は、一部の船員を除いて、漁撈・漁獲物の製造加工作業に従事した。そして漁期が終わると、帆船に、塩蔵鮭鱒や漁夫、漁網、その他資材類を積んで帰航した。 小熊も出漁当初には帆船を使用していたが、43年西カムチャツカの3漁場を経営するようになって、汽船生玉丸(526トン)を使用した。この汽船は傭船とみられるが、この年はほかに2隻の帆船を併用している。これは北洋漁業における汽船使用の最初の事例とされているが、翌44年には、函館の浜根岸太郎、杉野三次郎と共同して、汽船浦塩丸(547トン)を購入し、小熊が経営するカムチャツカ西岸4漁場の輸送に使用した。汽船使用の結果は上々で、帆船の場合は、天候や風向の影響で漁場までの航海に、1月ないしは2か月の日数を要していたものが、汽船使用の場合、航海日数がわずか6日間と大幅に短縮され、汽船利用の有利性が立証された。 また帆船では、往復各1回の輸送に限られ、船は漁期間中現地に繋がれていたので利用効率が極めて悪く、また大漁の時には、積載量が小さく漁獲物を現地に残して帰らねばならない事態も生じていた。しかし汽船の場合、多数の漁場に対して、定期的、かつ計画的に物資の輸送や補給を行い、漁場における生産の進捗に応じて製造加工品の搬出ができるわけで、漁場への人員、物資などの輸送に汽船が使用されるようになったことは、露領漁業の近代化にとっては画期的な意義を持っていた。
カムチャツカの漁場経営では、最初の2年間は1漁区の経営に止どまっていたが、汽船の使用とともに経営漁区の増加を図り、43年には漁区の入札で長期漁区(3年)3か所を落札した。だが44、5年になると、優良漁場はほぼ満配に達して、ロシア人漁業者との競合や租借料(競落価格)の上昇で、入札による漁区の取得が次第に困難になっている(表1−54)。 すなわち、44年の漁区の競売には、短期漁区2か所に入札したが、1か所は指定価格(4100ルーブル)を下回って不落(前年度3700ルーブル)。また大正2年の競売では、期限切れとなる2か所の長期漁区(西カム・ウォロフスコイ7、8)の入札で、ロシア人漁業家デンビーに敗れている。この2つの漁区は、デンビーと交渉した結果、小熊が譲り受けることになったが、この間の経過を小熊は次のように書いている。 (三月二十七日) 午前七時浦塩出張中ノ結城新助ヨリノ来電ニヨレバ、「一号、二号ノ漁場ハ何レモ二千六〇〇円ニテ、デンビーニ取ラレタ、三号一千八一〇円ニテ取ッタ、デンビーヘ譲受交渉中、中瀬捨太郎氏尽力中多分極マル見込」(漁区番号は小熊商店内部のもの−筆者注) また大正2年には、当時露領漁業の主流になっていた缶詰生産を企て、富山の袴信一郎から西カム・コシェゴチェンスク漁場を9104円で買収している(缶詰生産は実現していない)。このほか同年には、不振が続いていた仕込み漁場を直営事業に抱え込み、大正4年には東カム3漁場を合わせて経営漁区は10か所に達した。 このような状況の下で、大正3年7月に勃発した第1次世界大戦は、軍需食糧としての鮭鱒缶詰の需要の増大をもたらし、缶詰生産を基礎とする北洋漁業の構造変化と生産拡大に多大の刺激を与えたが、他面では、戦争拡大に伴う世界的な船腹不足や汽船運賃、傭船料の暴騰が、北洋出漁を困難にした。このような事態を迎えて小熊は、大正5年の営業方針で「欧州大戦乱ノ余響ニテ世界海運界ニ空前ノ大活況ヲ呈シ居ル千載一遇ノ好機ニ際会シタル事故資力ノ許ス限リノ範囲内ニ於イテ積極主義ノ方針ヲ取ルコト。……戦乱ノ前途ハ益々遼遠トナリ目的ノ好機ハ既ニ目睫ノ間ニ迫リタル様ニ考エタル故大正四年后半期ヨリ欧州戦乱ノ形勢ヲ注視シ機会ノ到来ヲ待チ居リタルニ八月下旬頃ヨリイヨイヨ決意シテ活動ヲ開始シ適当ナル汽船ヲ物色シタル結果乾坤一擲的ノ大勇断ヲ以テ六千屯級ノ大汽船盛興丸ヲ金六拾万円ト言フ殆ド全国ニ例ノナキ破格ノ価格デ購入シ」て積極的に海運業へ転換することを明らかにしている。 一方漁業部門については、「漁業経済上至大ノ関係アル汽船運賃大暴騰ノタメ前途到底収益ノ見込ミ相立タザル故及ブ限リ消極ノ方針ヲ取ル事」として、大正5年度は、漁場に近い樺太の全漁場(東岸7、西岸2)を直営し、カムチャツカにおいては、「海運界ニ激変ノ惧レアル故」前年度経営した9か所(東3、西6)の漁場を3か所(実際は4か所を経営)に縮小することとした(「大正五年度営業大方針」小熊家文書)。 この後、大正6年には樺太東西漁場9か所を日魯漁業株式会社に35万円で売却し、大阪の日本汽船株式会社から汽船御影丸(2500トン)を57万円で購入して益々海運業の拡大を図った。一方漁業部門では、この年カムチャツカ漁場には4か所に出漁したが、翌7年の経営漁場は3か所に減っている。 このように、小熊は、第1次世界大戦を契機に、漁業部門を縮小して海運業の拡大を図ることになったが、この時期の露領漁業では、缶詰生産に主力をおく堤商会、日魯漁業、輸出食品などの会社経営が主流をなし、専ら塩蔵鮭鱒を生産する個人の漁業経営では立ち行かない状況になっていたのである。 小熊は、大正9年3月、堤清六、袴信一郎、真藤慎太郎らの呼び掛けに応じて、カムチャツカの中堅漁業家を糾合して設立された、勘察加漁業株式会社に参加して取締役社長に就任している。これによって、小熊のカムチャツカ漁場は勘察加漁業株式会社に継承されることになった。 なお、勘察加漁業株式会社は、堤清六らによる露領漁業における企業合同のステップとして設立された会社で、資本金は500万円、株主は21名で発足した。役員には小熊社長のほかに、袴信一郎が専務取締役、真藤慎太郎が常務取締役、そして、堤清六と平塚常次郎が取締役に就任した。主要株主は堤清六(1万4000株)、袴信一郎(1万2000株)、小熊・小熊商店(1万2000株)であるが、このほか株主には、函館の漁業家坂井定吉(4000株)、田中仙太郎(3000株)、函館製網船具株式会社が名を連ねている。同社は設立翌年の大正10年、日魯漁業株式会社とともに輸出食品株式会社と合併し、新生の日魯漁業株式会社に統合され、小熊は、その取締役に就任した(前掲『日魯漁業経営史』)。 |
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