通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第4節 明治末期函館の教育界
1 初等教育

就学者の増大

二部教授の実施

新教育の機運

学校行事の定着

学校の管理・運営の組織

宿直の定着

軍事と結びつく学校教育

明治期の子ども像

伸びる実質的就学率

学校行事の定着    P192−P193

 学校行事は教育的な意義を有する行事であるといわれ、その初めは、明治初期に、文明開化を目指して知識の習得が重視される風潮の中で、知識習得の程度を行政官はもちろんのこと、地域の有力者や父母らに公開するために、盛大に行われた試験であった。この試験を含めて、展覧会、運動会など教授に重点を置いた行事が成立する。ところが、明治23年に「教育勅語」が発布されると、臣民の養成という人物重視の方針が採られ、人物養成のために、知識よりも訓育に重点が置かれるようになり、訓育のための学校行事が盛んになっていった。儀式、遠足、運動会、修学旅行などがそれである。これらの学校行事は、学校の正式な教育活動である教授、訓育の延長であり、同時に児童の父母を教化したり、教育の成果を誇示したりするもので、児童たちの自主的活動ではなかったとされる(仲新監修『学校の歴史』第2巻)。
 学校行事のうち、臣民養成の意図の顕著な儀式、運動会および遠足の学枚への定着の様相を見ていきたい。

儀式   P193−P194

 儀式は、明治23年の教育勅語の発布直後に、「祝日大祭日儀式規程」が制定され、三大節儀式をはじめとして、入学式、卒業式など学校生活に節目をつける行事として定着するが、なかでも三大節の儀式は、天皇制教育の訓育の機能を期待される厳粛な行事として、児童はもちろん、地域の民衆を教化する機能を担っていくこととなる。函館における三大節儀式の模様を、若松尋常高等小学校の、同38年1月1日の新年式によって見ていきたい。若松小学校の新年式は、次ぎの順序によって進められている。同33年の「小学校令施行規則」および翌年の道庁訓令第134号によるものであろう。

順序
一  着席  イ 職員児童着席 ロ 参列員着席
二  修礼
三  学校長儀式挙行ノ旨ヲ告グ
四  御影勅語奉遷
五  御簾奉掲 一同最敬礼
六  唱歌 君が代 二回 一同合唱
七  職員児童参列員一同
     天皇陛下 皇后陛下 ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
八  学校長教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
九  御簾奉垂 一同最敬礼
十  学校長誨告
十一 唱歌 一月一日
十二 御影勅語奉遷
十三 学校長儀式終了ノ旨ヲ告グ
十四 修礼
十五 退席 イ 参列員退席 口 職員児童退席

 三大節のうち、2月11日の「紀元節」、11月3日の「天長節」もほぼ同様な順序で進められている。「御影」「勅語奉読」「君が代」を組み合わせる儀式内容は同じものである。唯一の違いは、それぞれの儀式に固有の唱歌があてられていることである。若松小学校の場合、入学式および卒業式には「御影勅語奉遷」の代わりに「勅語奉遷」が行われ、区長代理や父母が参加している。始業式や終業式には「勅語奉読」を欠いている。

運動会   P194−P195

 運動会は、この時期には、函館全域で実施されている様子が、若松小学校の日誌(以下「日誌」と略す)の収受文書欄の「運動会案内」によって知られる。案内状は、5月の中旬から6月の中旬にかけて、庁立函館中学校を含む区内の9校から寄せられている。
 若松小学校の運動会は、6月6日「午前八時ヨリ慈恵院前ノ広場に於テ第二回運動会ヲ挙行ス晴天ナリシカバ来観者非常ニ多ク盛会ナリキ」と記されている。しかも「来賓ノ重ナルモノヲ挙グレバ山田区長小中区書記鈴木高等女学校長神山商業学校長飯田学校医公私立小学校長其ノ他ノ職員新聞記者等ニシテ最後ニ来賓競走ヲナシ」というように、ほぼ地域ぐるみの行事として実施されたことが知られる。そのうえ、締め括りは「天皇陛下万歳陸海軍万歳ヲ各三唱シテ会場ヲ引キ上ゲタリ」というような、富国強兵につながる学校行事の性格を示すものとなっている。「強兵のための心身鍛練をめざしていた」といわれる(仲新監修前掲書)運動会の特色を端的に示しているといえる。
 ここで、『函館教育協会雑誌』(第164号)より当時の運動会の競技の種目を見ておきたい。

公立高砂尋常小学枚(五月二十日)
 徒歩、旗取、スプーンレース、遊戯、体操、五色旗送、韓信競争、障害物、玉拾、城落し、綱引、兎飛、豆嚢送り、提灯競争、担架、競走
公立宝尋常高等小学校(五月二十四日)
 徒歩、単脚、札拾、遊戯、担架、玉送り、旗送り、戴嚢、体操、豆嚢送り、牛若韓信、人運び、スプーンレース、脱嚢競走、綱引、障害物、御輿競走、外に同窓会員及び来賓競走職員競走
公立弥生高等小学校(六月十五日)
 徒歩、一人一脚、二人三脚、樽回し、提灯、牛若韓信、小隊教練、騎兵隊、障害物、縄跳競走、川瀬の渡し、武装、龍の玉取、外に同窓会員及び来賓職員競走

遠足   P195−P196

 遠足は明治10年代の後半に始まる。もともと行軍的要素を含み遠足運動会として実施されたといわれる。川原、原野、海岸などに遠足して遊戯、体操などを行って帰校するのである(仲新監修前掲書)。
 函館における遠足の実施状況を、若松小学校の「日誌」によってたどつてみると、明治37、38年とも、ほぼ同じ時期に実施されており、年間行事の1つとして定着していた様子がわかる。同37年4月29日の「日誌」には、校外教授を兼ねて、尋常科第1学年は五稜郭、第2学年は柏野、第3、4学年および高等科第1学年は湯川村湯の沢へ、それぞれ遠足を行っている。高等科第2、3、4学年は亀田村三角を経て赤川村に至り、同地の水道沈殿池を見学、湯川に達している。このような遠足の行程を見ると、単なる教授上の目的だけでなく、行軍の要素が残っているように思われる。因みに、明治38年にも同じ時期に遠足を実施しているが、この年は、近くは柏野、遠くは桔梗村、湯川村が目的地になっている。強兵のための心身鍛練という目標はこの場合にも当てはまるのであろう。
 なお、明治末期から大正初期にその起源をもつか実際に実施されている行事ないし組織を亀田尋常高等小学校の例でみると、学芸会(同42年7月)、同窓会(同35年4月3日、児童保護者会(同45年4月1日など、起源が明記されているもののほか、大正初期にすでに実施されているものに、「父兄の参観及び訪問」「家庭通信箋」「家庭訪問」などがある(『函館教育』第203号、大正4年)。
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