通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第1章 露両漁業基地の幕開け
第4節 明治末期函館の教育界
1 初等教育

就学者の増大

二部教授の実施

新教育の機運

学校行事の定着

学校の管理・運営の組織

宿直の定着

軍事と結びつく学校教育

明治期の子ども像

伸びる実質的就学率

軍事と結びつく学校教育   P199−P200

 日露戦争時に小学校の行事が軍事に結びつけられ、学校教育の軍事への傾斜の原型が形成されていることが学校日誌から明らかとなる。若松尋常高等小学校は、その創立以後、明治、大正、昭和戦前期を通じて記録された「日誌」を遺しているが、これらの「日誌」には函館区全体にわたる行事の様子が記されている。「日誌」には、学校教育が戦争に結びつけられていく経過が、明瞭に見て取れる。
 日露戦争2年目の明治38年の行事には、明らかに軍事への傾斜が認められる。その主なものは、戦死軍人の葬儀への学校関係者の会葬、「入営兵士」「出征将兵」「凱旋将兵」などの送迎、小学校児童の軍人家族慰問、慰問の状況を知らせる慰問状の戦地への郵送、「戦捷祝賀旗行列」への学校関係者の参加などである。戦死者の葬儀への会葬は、若松小学校の場合、同年中に前後10回に及び、そのうち9回は学校長の「戦死軍人…ノ葬儀ニ会葬」(4月15日)によるものであるが、残りの1回は、「校長初メ職員一同尋常科第四学年生並ニ高等科第四学年生ヲ引率シ会葬ス」(4月16日)るものであった。
 また「入営」「出征」「凱旋」将兵の送迎の記事は、「日誌」に、7月以降12月までの間に22件記録されており、月平均4件ほどになっている。しかもこの場合にも単に1小学校の行事にとどまらず、区全域にわたるものであった。11月以降、軍隊の送迎は、「凱旋」将兵に対するそれに変わっていった。この行事も、区役所の通知文書に従い、校長会議の協議の線に沿って区全域の行事として実施されていた。若松小学校では、11月7日以降19日までの間に、12回にわたって「凱旋」軍隊の送迎を行っている。
 小学校児童による軍人家族の慰問および戦地への慰問状の郵送については、すでに5月15日の区内の校長会議における新任の山田区長の演説の中で、「出征軍人慰問方法トシテ書方綴方図画ヲ送付セラレタキコト」が指示されたという(5月15日の記事)。昭和の戦時期には慰問文が盛んに発送されるが、日露戦争期の慰問状はその原型ともいうべきものであったといえる。
 以上の他、区全域にわたる行事「奉天戦捷旗行列」も、のちの時代の行事の原型をなすものといえる。

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