通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

戦争による大きな惨禍   P4−P7

 昭和20(1945)年8月15日は、天皇が連合国への無条件降伏・ポツダム宣言の受諾を発表することによって、昭和6年9月18日の「満州事変」勃発以来、天皇・軍部・政府が日中戦争、太平洋戦争への途を突進し続け、日本の国民のみならずアジア・太平洋の諸国民に大きな犠牲を強いてきたいわゆる「十五年戦争」が「敗戦」という形で終結した日であった。この無謀な「十五年戦争」によって尊い命を奪われた日本人は2000万人から3000万人に達したが(江口圭一『大系・日本の歴史』14)、そのうち函館市民の犠牲者は、現在確認できる数だけでも陸軍関係者3275人、海軍関係者1429人、函館空襲による住民79人の計4783人に及んだ(『函館市史』統計史料編)。なかでも太平洋戦争での犠牲者の数が多く、しかもこの「十五年戦争」における惨禍の大半が昭和20年3月以降に集中していた。そこでここでは昭和20年8月15日という日の歴史的意味を考えるためにも、昭和19年10月のフィリピンの戦いから翌20年8月15日にいたるまでの戦況の概要と、それに関わる国民や函館市民の犠牲者についてふれておきたい。
 昭和20年1月1日付け「北海道新聞」は一面トップに、「大元帥陛下、最高戦争指導会議に親臨」なるタイトルの写真(いわゆる「御前会議」の写真)を載せ、その下に「年頭飾る五特攻隊の殊勲」と題し、「我特別攻撃隊一誠・鉄心・旭光・進襲・皇華各飛行隊は、戦闘機掩護の下に十二月二十九日以降連続ミンドロ島に対する敵増援輸送船団に突入、之に大なる打撃を与へたり。右特別攻撃飛行隊の戦果中、現在迄に判明せるもの次の如し。輸送船撃沈三隻、大破炎上五隻、巡洋艦轟沈二隻」との大本営発表をもとにしたフィリピン戦線での″戦果″を大々的に報じている。″神風特別攻撃隊″が初めて戦闘に参加したのは19年10月25日のレイテ沖海戦であった。この「カミカゼ」攻撃は、最初のうちこそアメリカ軍に恐怖とショックを与えたが、それは航空戦力を急激に消耗させる絶望的な戦法であった。レイテ沖海戦に参加した日本軍は7万9261人が戦没し、生存者はわずかに2500人であった(『大岡昇平集(一〇)レイテ戦記』)。アメリカ軍は12月15日ミンドロ島に上陸し、20年1月9日ルソン島に上陸したのである。これがフィリピンの戦いの実態であった。それにも拘らず当時のマスコミは、右の「北海道新聞」の報道内容にみるごとく、厳しい報道管制下にあっては大本営発表の虚偽の報道をしなければならなかったが、特攻隊の″戦果″のみの報道それ自体がすでに戦局が悪化していることを暗示するものであった。その後20年2月19日に7万5000人のアメリカ軍が硫黄島に上陸し、3万3000人の日本軍との間ですさまじい戦闘を展開し、日本軍は2万1304人が戦死し、アメリカ軍も2万3000人の死傷者をだしながら硫黄島を占領した。この戦闘で戦死した函館市民は海軍関係者42人であった(『函館市史』統計史料編)。
 硫黄島のつぎにアメリカ軍が侵攻の目標としたのは沖縄であった。アメリカ軍はイギリス機動部隊を含めて艦船1400隻、艦載機1700機、人員45万余人という大兵力を沖縄攻略に投入した。アメリカ軍は3月26日、沖縄の慶良間諸島に上陸し、ついで4月1日、沖縄本島に18万3000人のアメリカ軍が上陸した(前掲『大系・日本の歴史』)。こうした状況のなかで、4月1日以来、「北海道新聞」は大本営発表内容を基に「敵沖縄本島に上陸、……事態刻々重大化」(4月2日付け)、「壮烈・海空の特攻隊夜襲、特設空母艦など丗四隻を撃沈破」(4月9日付け)、「勝道は一億特攻、沖縄決戦最終段階に突入」(5月30日付け)などと連日沖縄戦のことを報道したが、6月23日牛島司令官が自決し、沖縄戦は日本軍の全滅で終わった。このわずか3か月の沖縄戦における日本側の戦没者は18万8136人に及び、そのうち沖縄県民は日本側戦没者全体の約65パーセントに当たる12万2228人に達した(前掲『大系・日本の歴史』)。函館との関わりでいえば、昭和20年1月から8月15日までの函館市民の陸軍関係者の戦没者総数1394人のうち、4月から6月の戦没者が905人(全体の約65パーセント)を占め、その多くが沖縄戦における戦没者であった(『函館市史』統計史料編)。
 沖縄戦で日本軍が全滅した6月23日、政府は「国民義勇兵法」を公布し、15歳から60歳の男子、17歳から40歳の女子を国民義勇戦闘隊に編入し、「本土決戦」のための「一億特攻」をスローガンに、戦争完遂のための国民の根こそぎ動員体制をしいた。しかし、5月以降、B29による大都市への空襲が次第に激しくなっただけでなく、6月に入ると、空襲は全国の中小都市にまで及び、7月14日・15日にはついに函館市もその攻撃の的となった。「函館空襲」のアメリカ軍の重要目標は、北海道と本州を結ぶ鉄道貨物輸送(とくに本州の工業地帯向け北海道産石炭の輸送)の根幹となっていた青函連絡船網を破壊することであった。この「函館空襲」によって当時運行していた連絡船12隻中、10隻が沈没・座礁炎上し、2隻が損傷、373人が死亡するという被害を受け、青函連絡船による輸送ルートは破壊的な打撃を受けただけでなく、石炭を積んで函館から青森に航行中の機帆船272隻のうち、70隻が沈没し、79隻が損傷した。ただし機帆船の死亡者数は不明である(『函館市史』通説編第3巻、西村恵「函館の空襲に関する米国戦略爆撃調査団報告」『地域史研究はこだて』第10号)。この「函館空襲」をおこなったのは高速戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦からなる第三八機動部隊で、この部隊は20年7月初めにフィリピンのレイテ湾を出発したものだった。このうち青函連絡船をはじめとする函館・青森間を航行する船舶の攻撃と函館市街部の攻撃に関わったのは、ランドルフ、パターン、エセックス、モンテレーの4隻の空母で、この4隻の空母から14日・15日の2日間に空襲のために飛び立った戦闘機は延べ209機に及び、投下爆弾は、50ポンド通常爆弾514個・ロケット弾278個に達した。これによってもアメリカ軍が津軽海峡の交通網の破壊をいかに重視していたのかを知ることができる。事実、アメリカ軍の攻撃によって青函航路は全面的に破壊され、函館と本州を結ぶ途は完全に閉ざされたのである。これによって函館市民は物心両面において大きな打撃を被ったが、とくにここで注目しておきたいことは、アメリカ軍の激しい攻撃にも関わらず、日本軍機が一切防衛しえない状況を目の当たりにして、函館市民が「戦争の早期終結が待ち望まれることを認識し始めた」ことである(前掲「函館の空襲に関する米国戦略爆撃調査団報告」)。
 ところで、20年7月17日からドイツ(すでに5月7日連合国に無条件降伏)のベルリン郊外のポツダムでアメリカのトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の三国首脳会談が開催されたが、7月26日、中華民国の蒋介石主席の同意を得て、米英中の対日共同宣言である「ポツダム宣言」を発表した。この宣言は、反膨張主義、反ファシズムの理念で結ばれた連合国の共通意志を全面的かつ最終的に表明したものであった。翌27日、日本の最高戦争指導会議は、この「ポツダム宣言」には当面意志表示をしない方針を確認し、28日には鈴木貫太郎首相が記者会見で「ポツダム宣言」を「黙殺」すると語った。こうして日本の指導部は、日本本土の空襲で多くの国民が尊い命を奪われるまで追いつめられたにも拘らず、戦争終結のための具体策を何ひとつ示さないまま、無責任にも「本土決戦」を国民に鼓舞するのみであった。
 こうした状況のなかで、すでに原爆の開発に成功したアメリカは、対ソ戦略との関わりから、原爆投下によって対日戦争を終結させる方針を決定し、ポツダム会談が8月2日終了するや、トルーマンはすみやかに日本に原爆を投下せよという大統領命令に承認を与えた。かくしてアメリカ軍は、8月6日、広島に人類の歴史上最初の原爆を投下した。この原爆の投下によって、広島は約13万平方キロメートルの市域が灰燼に帰し、9万人から12万人が死亡した。ついで8月9日には長崎に原爆を投下し、これによって浦上地区を中心に約6.7平方キロメートルにわたる市街部が破壊され、6万人から7万人が死亡した。しかもこの間、8月8日にソ連が対日宣戦の布告をし、翌9日からソ連軍が中国東北部の旧「満州」地域、南樺太、千島列島に怒濤のごとく侵攻したことにより、日本はさらに大きな被害を受けることになったのである。日本の戦争指導者は、ソ連の対日参戦はないという前提で「本土決戦」体制を進めてきただけに、ソ連の参戦によって「本土決戦」体制の構想は崩壊し、もはや抗戦を断念し、「ポツダム宣言」を受諾する以外になかった。
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