通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

「玉音放送」と函館市民   P8−P9

 こうした状況のなかで8月9日深夜から御前会議が開催され、「ポツダム宣言」の受諾をめぐって激論が交わされた。この会議で問題となったのは、国体護持・戦争犯罪人処罰・武装解除および保障占領の4点であった。会議は意見の一致をみないままに翌10日午前2時過ぎまで続き、最後に天皇が「国体護持」を条件に「ポツダム宣言」を受諾する旨の「聖断」を下し、その旨を中立国のスイスとスウェーデンを通じて連合国に電報を出すことになった(寺崎英成『昭和天皇独白録』)。翌11日の新聞各紙は、情報局長総裁下村宏の「国体護持」の談話と阿南陸軍大臣の「全将兵への断固抗戦訓示」を並べて掲載したが、連合国側は、「降伏の時より、天皇および日本国政府の国家統治の権限は……連合国軍最高司令官に従属する」という回答を11日付けで日本に通達してきた(前掲『大系・日本の歴史』)。この回答をめぐって閣議も最高戦争指導会議も意見が分裂したのに加え、アメリカ軍が日本が「ポツダム宣言」を受諾しつつあることを日本国民に知らせるため、飛行機から宣伝「ビラ」を撒き始めた。ことここに至って天皇は、「このビラが軍隊一般の手に入ると『クーデタ』の起こるのは必然」であり、「何を置いても廟議の決定を少しでも早くしなければならぬ」と判断して(前掲『昭和天皇独白録』)、8月14日、宮中の防空壕で「御前会議」を召集し、「聖断」によって「ポツダム宣言」の受諾を決定した。御前会議終了後、天皇は「終戦詔書」を朗読し、それをレコードに録音して、翌8月15日正午、レコード録音された「玉音」がラジオで放送された。一般国民が天皇の声を聞いたのはこれが最初であった。
 当日の「北海道新聞」は、1面トップで「平和再建の聖断下る」との見出しで、「残忍凶暴な新兵器原子爆弾は、遂に我らの戦争努力の一切を烏有に帰せしめた。その強烈な破壊力はこれまでの戦争形式を抜本的に変革し一億特攻の敢闘精神に凝固したわが前線将兵も銃後の国民もこの高性能兵器に対しては戦ふ態度をはつきりと改めねばならぬことになつた……聖上陛下にはこの原子爆弾の惨害の愈よ民草の上に加重されることを痛く御軫念あらせられ政府をして戦争終局の方途を講ぜしめ給うたのである」と記し、さらに「帝国堪へ難きを堪へ忍び 遂に四国共同宣言を受諾 昨日詔書渙発あらせらる」との月出しで8月14日付けの「詔書」の全文を掲載するとともに、その上段に「万世の為に太平を開かん 天皇陛下 けふ正午御異例の御放送」との見出しで「玉音放送」の予告をしている。マスコミ関係者を含む一部の市民はすでに8月12日の段階でこういう事態を迎えることは知っていた(本山まさな『戦時雑稿 百貨店は業種「丙」』)。しかし、この新聞が配達されたのは8月15日の午後であった。そのため函館市民の多くは同日正午の「玉音放送」によって敗戦の事実を初めて知るとともに、午後に配達された新聞の記事などよって事実関係を確認することができた。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ