通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

人口の急増   P16−P17

表序−1 函館市の人口動態
年次
戸数
対前年比
現住人口
対前年比
昭和13
41,751
453
220,863
2,792
14
41,067
-684
217,245
-3,618
15
41,551
484
203,862
-13,383
16
41,214
-337
202,807
-1,055
17
41,530
316
212,139
9,332
18
41,675
145
212,382
243
19
41,742
67
196,104
-16,278
20
39,397
-2,345
181,531
-14,573
21
41,126
1,729
185,367
3,836
22
43,480
2,354
211,441
26,074
23
44,708
1,228
213,034
1,593
24
47,126
2,418
226,584
13,550
25
47,736
610
228,993
2,409
26
48,233
497
233,486
4,493
27
47,502
-731
234,984
1,498
28
48,543
1,041
239,326
4,342
29
50,042
1,499
240,260
934
30
51,538
1,496
247,799
7,539
31
53,588
2,050
248,977
1,178
32
55,269
1,681
250,764
1,787
33
56,847
1,578
250,380
-384
『函館市史』統計史料編より作成
 表序−1は、昭和13(1938)年から昭和33(1958)年に至る20年間における函館市の戸数と現住人口の推移を示したものである。昭和13年までさかのぼって数値を示したのは、この年が戦前における函館市の現住人口がもっとも多かった年であったからで、13年の数値を基準にその後の戸数・現住人口の推移をみることによって戦時中と敗戦直後、およびその後昭和33年に至る時期の函館市の人口動態の特徴を各時期ごとに把握することができるものと判断したことによる。
 まずこの表からうかがえる各時期の特徴的なことは、第一に、昭和13年の人口が戦時中であるにも拘らず22万863人を数え、戦前における最多の人口に達したこと、しかし翌14年から16年までは連年減少し、昭和17年と18年には一時若干増加したものの昭和19年と20年には再び連年減少し、この両年だけで3万余人の人口減となり、敗戦の年である20年にはついに18万1531人にまで減少したことである。この昭和20年の人口は昭和恐慌期直前の昭和4年の人口(18万300人)を若干オーバーするに過ぎない人口であった。
 第二の特徴は、昭和21年からは再び連年にわたって人口が増加したことである。政府は同年3月8日付けの勅令により戦災都市の食糧や住宅復旧状態を鑑みて、転入者を抑制する旨の指示を出し、函館市もこの「転入抑制都市」に指定された。昭和21年に転入を許可されたのは、「国民生活再興業務に従事する者」や「官公吏」などに限られたが、それでも本人と扶養家族を合わせると、2万7731人にのぼった(昭和21年『函館市事務報告書』)。その後、24年にはついに22万6584人に達し、戦前の最多人口である昭和13年の人口をオーバーするに至った。20年からわずか4年間で4万5000余人の増加をみたわけで、年平均1万1000余人の増加をみたことになる。
 この時期は、敗戦後の復員に伴う第1次ベビー・ブームの時期(昭和22年から24年)に相当しているので、人口の増加には、こうした出生者の増加という要因が潜んでいることは否めないが、この時期が樺太・千島からの引揚者を多く迎えた時期であり、しかもそのうち函館市に残留した人びとが25年8月現在で2万余人に達していたという事実を考慮するならば、こうした函館市に残った多くの引揚者の存在が人口増の大きな要因になっていたものとみなければなるまい。
 さらに第三に、昭和25年以降は毎年人口が増加して、32年にはついに25万人をオーバーするに至ったことである。この時期は昭和26年の対日講和条約の調印に伴い占領軍による日本の統治方式に終止符が打たれるとともに、経済的側面では戦後の復興期から高度経済成長期の初期に相当していた。しかし翌33年から増加の勢いに陰りがみえ始めただけでなく、同年には300余人の減少をみるに至ったという事実にも留意しておきたい。
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ