通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


「函館市史」トップ(総目次)

序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

占領軍の上陸と函館市民の生活   P9−P13

 アメリカ軍の日本進駐は、8月28日、先遣隊の神奈川県厚木飛行場着陸に始まり、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は8月30日に到着した。続いてフィリピンと沖縄で本土上陸作戦を準備していた第六軍と第八軍を主力とするアメリカ軍兵士約40万が日本に上陸してきた。その後9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号上で降伏文書の調印がおこなわれ、これによって日本は名実ともに連合国軍の占領下に入ったのである。連合国軍最高司令官として日本にのりこんだマッカーサーは、当初日本をアメリカ軍の直接軍政下におき軍票を発行しようとしたが、日本政府の強い抵抗にあって、占領軍の命令は最高司令官が日本政府に出し、日本政府がそれを実行するという間接統治方式に改められた。その後占領軍は日本の各地に先遣隊を派遣して当該地域の状況を調査したが、函館に先遣隊がきた正確な月日は定かでない。しかし本山まさなによると、9月24日占領軍の先遣隊が函館市の森屋百貨店などを視察しており、またこの視察の件はすでに9月22日に渉外局から通知されていたという(前掲『戦時雑稿 百貨店は業種「丙」』)。同書や当時の新聞記事の内容などから判断すると9月22日前後には函館入りしていた可能性が強いようである。ともあれ先遣隊は、その後占領軍の函館進駐に備えて函館市内の各地を調査した。
 8月15日の敗戦という事態に遭遇するや、函館市民の間にさまざまな流言が飛び交い、「占領軍」=アメリカ軍に対する恐怖感が広がった。警察署長らがその打ち消しにやっきとなった模様が新聞に報道されている(第1章第1節参照)。警察署が市民に注意したことの中心は、女性の服装や行動に関したことで、また、当時の函館市長登坂良作が後に、当時一番心配したことは「女性問題」であったと語っている(昭和30年8月16日付け「函新」)。こうした新聞記事や市長の回顧談からうかがえることは、当時の行政当局や治安当局がアメリカ軍の進駐を前にしてもっとも心配した問題は、市民生活の混乱もさることながら、その中心は女性問題にあったことである。
 こうした対応のあり方には、時の政府の対占領軍対策のあり方が強く反映されていた。昭和20年8月18日には、内務省が各地方長官に対し、占領軍向け性的慰安婦施設の設置を指令し、東京都長官や神奈川県知事もその処置をとり、さらに市区町村長に対し、女性の保護について指示した。これにより、東京都では、アメリカ軍の進駐に先立って、8月26日に特殊慰安施設協会を設立し、「特殊女子従業員(娼婦)」の募集をおこなったうえで当該施設を開業した(藤原彰『大系・日本の歴史』15)。
 占領軍の上陸を前提にした函館の行政当局や治安当局の具体的な対応策が始まるのは、新聞記事や関係史料をみる限りでは9月以降のことのようである。まず具体策で目に付くのは、警察署・市役所が市民に対して占領軍を迎えるにあたっての心構えを繰り返し宣伝すると同時に、市内の各国民学校でも生徒たちにこのことを伝えていることをはじめ、アメリカ軍に対する友好ムードの盛り上げ策と警察・交通機関の職員に対する英語教育や官公庁の英語表記および市内の清掃などである(第1章第1節参照)。9月25日には青柳国民学校が正門に英語の門標を掲げた(辻喜久子「国民学校のこどもたち−昭和二十年青柳国民学校日誌−」『地域史研究はこだて』第10号)。
 こうして函館市民の占領軍に対する心の準備がほぼ整った頃、10月4日早朝に、レイ・L・バーネル准将が率いる第八軍・第九軍団第七七師団第三〇六旅団が函館港に到着した。

日本軍需品リストを点検するバーネル准将一行(『地域史研究はこだて』第33号より)
 しかし、占領軍が函館に上陸した時は、GHQの地方統治体制がいまだ整備されていない時期であった。GHQの北海道の統治体制が本格的に整備されたのは、アメリカ軍第八軍第九軍団北海道軍政部が札幌に設置され、それまでの戦闘部隊による占領にかわって「軍政」が開始された翌21年7月1日以降のことである。これに伴い函館には軍政チームが設置された。その後24年7月1日、「軍政部」という名称が「直接軍政」と誤解されることをさけるため「軍政部」は「北海道地方民生部」と改称された(第3章第1節参照)。
 次に函館における占領軍と市民との関わりをみておこう。函館でも占領軍が進駐するや、まず占領軍相手の風俗営業がいちはやく開業した。先ほどふれたように「女性問題」を心配したからであった。20年10月13日以降、占領軍将兵の市内への外出が全面的に自由になったことに加え(10月13日付け「道新」)、8月18日に内務省が各地方長官に対し、占領軍向け性的慰安施設の設置を指令したこととも関係していたものと思われる(第7編コラム3参照)。
 また占領軍は市民に労働供出を強制した。「勤労出動者」として各町会別に占領軍の駐留地に動員されることとなったのである。この「勤労出動者」は、当初は無報酬の名実ともにアメリカ軍への勤労奉仕者に過ぎなかったから、食糧難に喘いでいた函館市民にとっては大きな負担となった。そのため函館市では、彼らに対して米1合ずつを特別に配給することを決定している(10月19日付け「道新」)。その一方占領軍は、こうした市民の勤労動員と並行して、函館勤労署(後の函館公共職業安定所)を通じ常勤・臨時の大工・左官・雑役ほかの各種労働者を雇用したが、同年10月の函館市民の失業率が48.4パーセントという状況にあって(11月16日付け「道新」)、占領軍への「常傭」希望者が殺到し、10月26日までに函館勤労署が「占領軍宿舎」へ斡旋した「一般常備労働者」は338人に達したという。
 しかし、この「常傭労働者」も食糧事情の悪化で欠勤者が増加したため、同日、函館勤労署はその解決策として彼ら「常傭労働者」に対して飯米1日1合以上、軍手1か月3組以上、地下足袋1か月1足以上を特別配給するよう道庁長官に陳情した。このこともあって10月30日には「函館地区進駐軍」が渡島支庁に保管依頼中の「軍需物資」の放出を指示し、11月1日には、占領軍は「常傭労働者」にも1日米1合の特別配給を実施すると共に、彼ら「常傭労働者」に対し1律1日10円60銭の賃金を支給することとし、臨時労働者の賃金も「常備労働者」と同一となった(昭和20年10月28日・11月10日付け「道新」)。その後占領軍は、主として同年末までに関係諸設備・施設整備のために各種労働者(アメリカ軍食堂の給仕としての女性や通訳を含む)をあいついで雇用しているが、それまでの市民勤労奉仕隊の呼称を「勤労要員」と改称し、彼らに対して11月1日に遡って「常傭労働者」同様1日10円60銭の賃金と米の特別配給をおこなっている(11月16日・20日付け「道新」)。
 市内各所でおこなわれたDDTの撒布も占領軍の指示であった。主として昭和21年に集中的におこなわれている。昭和21年1月23日、占領軍が猛威をふるう発疹チフスに対して、DDTの撒布・消毒の徹底など防疫に万全を期すべく、函館市長名で市民に注意することを求めた。これを皮切りに函館市は、浴場や学校、病院などの人びとが集まる施設から、一般家庭にまでDDTを撒布した。さらには青函連絡船の乗客に対してもDDTの撒布がおこなわれるようになった(第7編コラム2参照)。
 昭和23年以降になると、GHQの下部機関である民間情報教育局(CIE)による文化・教育活動が盛んになった。同年9月4日に共愛会館の1階に「函館CIE図書館」(初代館長キナーが開設された(昭和25年、真砂町の旧専売公社函館支局の建物に移転)。以後同図書館にアメリカの文化を紹介する図書や映画フィルムが揃えられ、市立函館図書館を積極的に活用しながら函館市民や渡島・檜山・胆振管内の教職員に対し映画・幻灯の映写会やレコード鑑賞会を開催するなど、民主主義思想の普及とアメリカ文化の紹介に力を注いだ(第1章第6節参照)。
 なお、函館の占領軍が函館を撤退した正確な時期は定かでないが、昭和25年の「朝鮮戦争」の勃発に伴い、多くのアメリカ軍兵士が朝鮮戦争に出兵していることや、アメリカ占領軍の北海道の組織である「北海道地区民事部」が翌昭和26年6月30日廃止され、9月8日の対日講和条約(サンフランシスコ条約)調印以前の6月上旬にはアメリカ人職員の多くが帰国したとされているので、函館にあっても昭和26年6月頃までには、「函館CIE図書館」関係者を除く大部分の占領軍は函館を撤退したものとみられる。
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