通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

あいつぐ民主化政策   P17−P20

 敗戦直後の内閣は、戦前の国家体制をそのまま維持することをめざしていた東久邇宮内閣であったため、ポツダム宣言の真意も、連合国の日本の民主化の精神も理解することはできなかった。そのため連合国による日本の占領という事態に遭遇しても治安維持法はそのまま存在し続け、特別高等警察(特高)も活動を続けていたので、政治犯は依然として投獄されたままという状態にあった。このような状況のなかで、昭和20年10月4日、GHQは「政治的、民事的、宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(いわゆる「人権指令」)を東久邇宮内閣につきつけた。GHQの最初の民主化指令であった。この「覚書」は、思想・宗教・言論・集会の自由を制限している一切の法令の廃止を命ずるとともに、政治犯の即時釈放、特高警察の廃止と全員の罷免、内務大臣・警保局長・警視総監・特高関係者の罷免、天皇についての討論の自由などを指令したものであった。東久邇宮内閣は、この指令だけは実行できないとして翌10月5日総辞職した。そのためGHQの指令に基づく戦後の民主化政策の多くは、次の幣原内閣(昭和20年10月9日から21年4月22日)と第1次吉田内閣(21年5月22日から23年5月20日)によって実施されていくこととなった。
 幣原内閣成立直後の20年10月11日、マッカーサー総司合官は、幣原首相に憲法改正の必要を示唆したうえで、(1)婦人の解放、(2)労働組合の結成奨励、(3)学校教育の民主化、(4)秘密審問司法制度の撤廃、(5)経済制度の民主化の5項目を指示した。これがいわゆる「五大改革指令」である。敗戦後の日本社会全体における民主化を進めるうえで大きな役割を果たしたのが先の20年10月4日の「人権指令」とこの「五大改革指令」であった。
 また10月22日、GHQは「日本の教育制度の管理についての覚書」を出して、軍国主義的・国家主義的な教育の禁止を指令し、ついで12月15日には、国家神道(神社神道)に対して政府や官公吏が保証・支援・保全・監督をすることを禁止する指令を出し、神道と国家との分離が命ぜられた。この指令は、学校における神道の教育、官公吏の神社への公式参拝をも禁止するものでもあった。さらに12月17日には衆議院議員選挙法の改正を公布した。この選挙法の改正はGHQが指令した「五大改革」のひとつである(1)の「婦人の解放」を実現する抜本的な改革であり、これによって日本の歴史上初めて女性に参政権が認められたことは周知のとおりである。
 「五大改革」の(2)の「労働組合の結成奨励」に応えたものが20年12月22日公布の「労働組合法」の公布であった(24年全面改正)。この法律は、労働者の団結権と団体交渉権を保証することを目的としたもので、正当な争議行為に民事・刑事上の免責をおこない、労働協約に法的拘束力をもたせ、労使・第三者からなる労働委員会を設けるもので、その後の労働関係調整法(21年)・労働基準法(22年)の成立につながるものであった。この頃国内でほ社会党の結成や共産党の再建などに加え、生活難の防衛の必要性などからすでに労働組合があいついで結成されるようになっていた。日本全体では、20年末現在で労働組合数509、組合員38万余人を数えるに至っていた(前掲『大系・日本の歴史』15)。函館市においても同年末までにすでに北海道新聞函館支社従業員組合、函館船渠従業員組合などの結成をみている(第1章第4節参照)。20年12月22日公布の「労働組合法」は、こうした労働組合の結成と労働運動の広がりに拍車をかけることとなったのである。
 (3)の「学校教育の民主化」は、軍国主義的な教科書・教材を排除することから始められたが、敗戦直後は新しい教科書の作成が間に合わなかったために、従来の古い教科書に墨を塗って、小学校や中学校の教育が進められた。その後この教育制度の民主化は、22年の教育基本法・学校教育法の制定と学制改革へとつながっていった。(4)の「秘密審問司法制度の撤廃」は、その後の司法制度の大幅な改正につながった。それまでの裁判の性格について若干ふれておくと、まず警察において留置のまま取り調べがおこなわれ、それも何か月も各警察署をタライ回しにされ、自白を得るまで拘禁することもしばしばであった。そのうえで身柄が検事局に送られた場合にも刑務所に拘禁し、「予審」と称する取り調べがおこなわれ、弁護士との連絡もできないのが実情であった。そのため、容疑者となった者は、肉体的な拷問を受けることも多く、また拷問をされないまでも、精神的に著しい苦痛を受けて自白を強要されることも多かったのである(中村隆英『昭和史U』)。小林多喜二の小説はこうした戦前の司法・裁判制度の特徴と実態を良く描写しており、彼自身こうした警察の拷問によって命を失ったのであった。そのため戦後の民主化政策、とくに昭和22年の「日本国憲法」の施行を大きな契機として、被告の人権を保証する新たな司法・裁判制度か定められることとなった。
 (5)の「経済制度の民主化」は、その後の財閥解体や22年の独占禁止法の公布を予告するものであった。こうした雰囲気のなかで、自発的な動きをみせたのが農林省であった。農林省は戦前から食糧問題解決のためにも農地改革の必要性を主張しており、幣原内閣の時も農村の赤化防止のためにも農地改革が必要であるとし、この農地改革案を立案した。農林省の最終的な案は、(1)5町歩以上保有する地主は、5町歩を上回る小作地を小作農の申請に従って売り渡す、(2)その取引は両者の話し合いによっておこない、政府は直接介入しない、というものであった。幣原内閣は、こうした内容の農地改革案を20年11月の第89臨時議会に提出した。しかし、地主の利害を代表する翼賛議員が大部分を占める衆議院は、これに抵抗し、議案は審議未了になりそうになった。ところがそのさなかの12月9日、GHQは徹底的な農地改革を要求する「農地改革に関する覚書」を出し、翌年3月15日までに改革計画を提出するよう指令した。そのため議会も態度を改めざるをえなくなり、ついにこの改革案を通過させた。これか第1次農地改革と称されるものである。その後GHQは、この改革をてぬるいとして一時差し止めの指令を出したため、翌21年10月21日、農地調整法改正案・自作農創設特別措置法が公布された。これが第2次農地改革と呼ばれるものであり、これによっていわゆる戦後の「農地改革」がおこなわれることとなったのである(前掲『大系・日本史』15、『昭和史U』。
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