通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

食糧難と失業問題   P22−P24

 こうして敗戦から約1年2か月後に「日本国憲法」が公布され、これ以降の日本の社会は、あらゆる分野において、この新憲法を土台として展開していくこととなったが、敗戦直後から昭和20年代前半期の函館市民の生活は、新憲法のうたい文句とは裏腹にきわめて厳しい状況に置かれていた。なかでも市民の生活を脅かしたのが食糧難とインフレであった。敗戦の年の昭和20年は、日本全体が大凶作の年で、稲作は平年作の3分の2にとどまった。肥料不足のため、たとえ天候が順調でも収量低下は避けられない状態にあったうえに、この年は冷夏だった。そのため北海道の農業が受けた打撃は非常に大きかった。その結果、同年秋から翌年にかけて函館市民は深刻な食糧危機に直面した。しかも函館市の場合、先にも記したように戦災者の来住に加え、昭和21年以降は復員者・引揚者などによって人口が急増したため、食糧問題は一層深刻な問題となったのである。
 こうしたなかで函館市は食糧問題解決のために全力を投球した。昭和21年『函館市事務報告書』はこの件について「昨年度は全国的な凶作と供出不振のため主要食糧の需給不円滑は極度に深刻となり特に北海道は稀有の凶作にわざわいし混乱の度を加えた。此の間市では、極力窮況の打開に努めると共に、北海道庁長官、経済部長、食糧課長及北海道食糧事務所に対し、連日これが善処方を要求し、更に市会食糧対策委員の出荷地督励及市吏員、食糧営団職員、日本通運職員の不断の出荷地督励等全力を傾注したが、なお相当な未配日数を数えるに至った。幸い5月から9月に至る間米軍の好意による輸入食糧の放出により、辛うじて危機を脱し、加えて馬鈴薯、南瓜の豊作により漸く常態に復するを得た」と記している。
 こうした食糧難問題とともに敗戦直後の市民生活を脅かしたのが失業問題であった。とくに引揚者や戦災者の失業問題は深刻であった。昭和21年5月末現在で引揚者の就業率はわずかに20パーセントに過ぎず、戦災者の場合は引揚者より良かったものの、それでも6月末現在の就業率は約50パーセントに過ぎなかった(21年7月30日付け1道新」)。また市民全体の就業率をみると、22年は求職者数8951人に対し就職者数は6048人で」68パーセント、23年は求職者数1万1152人に対し就職者数が5921人で53パーセントとなり、22年より23年の就業率の方か悪化するに至った(昭和24年『函館市勢要覧』)。こうした就職率の低下傾向は年々顕著になり、25年では、求職者数2万7796人に対し就職者数が9519人でわずかに34パーセントに過ぎなかった(昭和26年『函餌市勢要覧)。このことはとりもなおさず定職に就きたくとも就けない人びと、つまり失業者が年々増加していったことを示している。ではこれらの失業者は一体どのようにして生活を支えていたのであろうか。答えは簡単である。「日雇」労働に就くか、生活保護を受ける以外に生活の途はなかったのである。そのため函館市では昭和24四年以降「失業対策事業」に取り組むこととなった。日雇失業保険利用状況では函館市が北海道のなかでもっとも多く、昭和25年の例をみると、4月が全道841人のうち608人で72パーセント、5月が全道1020人のうち、587人で58パーセント、6月が全道が1456人のうち、1330人で91パーセントを占めていた(昭和26年版『北海道年鑑』)。さらに翌昭和26年5月中における求職者数をみると、全道の求職者延人数21万9309人のうち、函館職業安定所管内が全体の38パーセントに当たる8万3392人に達して全道でもっとも多く、その結果1日平均求職者数も、全道総数7310人のうち、函館職業安定所管内が全体の約37パーセントに当たる2690人を占め(昭和27年版『北海道年鑑』)、函館市民の求職者数がほかの地域に比べ、きわめて多かったことを知ることができる。つまり当時の函館市は、道内でも日雇労働者のもっとも多い地域になっていたのである。これらの数字によっても敗戦後の函館市における失業問題がいかに深刻な問題になっていたのかを知ることができよう。
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