通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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序章 戦後の函館、その激動の歴史と市民
第1節 混乱から復興へ

戦争による大きな惨禍

「玉音放送」と函館市民

占領軍の上陸と函館市民の生活

引揚者の窓口

人口の急増

あいつぐ民主化政策

天皇の「人間宣言」と「日本国憲法」の公布

食糧難と失業問題

市民の命を支えたスルメイカ

北洋漁業の再開と「北洋博」

復興期の函館経済の諸相

市民の命を支えたスルメイカ   P24−P25

 ところで敗戦直後の函館の経済はどうだったのか。戦前・戦中の函館の経済は主として北洋漁業と関連産業に支えられていた(『函館市史』通説編3巻)。ところが敗戦直後、占領軍によってマッカーサー・ラインが設定され(159頁の図1−1参照)、日本の漁業はこのマッカーサー・ライン内の海域での操業に限定されることとなった。これにより、北海道の漁業は戦前に操業していた日本海北部、オホーツク海、北太平洋の広範な漁場を喪失しただけでなく、宗谷海峡および納沙布岬と知床岬を結ぶ沿岸は、海岸から3カイリ以内の海域に制限されることとなったのである。北洋漁場の喪失という事態の発生は敗戦直後の函館の経済に大きな打撃を与えた。しかもこの時期は、先にもみたように函館市民の多くが食糧難・栄養失調・失業・住宅難というかつてみられなかった困難に遭遇していた。それだけに敗戦直後の函館市は、北洋漁業に大きく依存した従来の経済構造を転換し、新たな経済基盤の創出という大きな課題に直面することになったのである。
 このような時、北洋漁業の空白をうめたのがイカ釣り漁業であった。昭和20年代には急速に増大したスルメイカの水揚げに支えられて新たな再生の途を歩み始めることができたのである。
 この時期にイカ釣り漁業が発展した背景としては、(1)イカは動物性食品のなかでもその栄養価値がきわめて高い品目であったために食料難や栄養失調に苦しむ当時の国民にとって体力を増強するための大衆食品として需要が急増したこと、(2)スルメイカの主要漁場が函館近海の津軽海峡であったという地の利や、当時のイカ釣り漁業の多くは、わずかな資金さえあればすぐ着業できたことに加え、就職難で困っていた市民が多かったので、低賃金労働者(釣子)を雇用できたこと、(3)21年3月にいわゆる「ポツダム勅令」として制定された物価統制令によってイカも統制価格の対象となったため、この統制価格が大消費地から離れた津軽海峡でのイカ釣り漁業の発展に拍車をかけたことなどが考えられる(大島幸吉『イカ漁業とその振興策』、北海道水産部編『いか漁業の経済分析』、北海道編『新北海道漁業史』)。昭和26年6月、船場町にスルメを取扱いの中心品目とした函館海産物取引所が設立されたのもこうした動向のなかで現出したものであった。
 しかしイカ釣り漁業に支えられた函館経済の「活気」も長くは続かなかった。占領軍の命令で昭和24年4月25日から1ドル=360円の単一為替レートが実施されたが、これは緊縮政策の実施を条件にするものであったから、この影響を受けて漁業地帯の景気は収束に向かったことに加え、翌25年にはイカを含む水産物に対する統制価格が撤廃され、しかも同年頃にはすでに乱獲の影響で道南地域のイカの資源が減少したため、敗戦後わずか数年にしてイカ釣り漁業が衰退し始めたからである(第1章第3節参照)。その結果、函館経済は再び大きな困難に遭遇することとなった。
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