通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 連合国軍の占領開始 |
連合国軍の占領開始 P63−P64 日本は、昭和20年8月14日の御前会議でポツダム宣言による要求を受諾することに決し、敗戦を受け入れた。翌15日天皇は、ラジオ放送を通じてその旨を国民に告げ、連合国に占領されることになったのである。アメリカでは、開戦後まもなくから国務省内に戦後対日占領政策を検討する機関を設置していたが、昭和19年末創設の国家安全保障政策の最高決定機関である国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC=State-War-Navy Coordinating Committee)でアメリカによる単独占領が確認され、対日占領の準備が進められていた。ポツダム宣言で日本の領土は「本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限」され、沖縄がアメリカの直接統治となり、日本本土は日本政府を利用する間接統治となった(進藤英一『敗戦の逆説』)。8月15日にアメリカのマッカーサー元帥が連合国最高司令官(SCAP=Supreme Commander for the Allied Powers)に任命され、SWNCCが22日に決定した「降伏後におけるアメリカの初期対日方針」が彼にガイダンスとして伝えられた。この「初期の対日方針」は、文字どおりアメリカの日本占領方針の基本で、究極の目的として「日本国が再びアメリカの脅威とならず、また世界および安全の脅威にならないことを確実にすること。アメリカの目的を指示すべき平和的且責任ある政府を樹立すること。これは自由に表示された国民の意思に支持されたものであること」が掲げられ、その後トルーマン大統領の承認を受けて9月6日、SWNCC第150号4として総司令部に正式に伝えられ、22日に発表された(百瀬孝『事典 昭和戦後期の日本(占領と改革)』)。 マッカーサー司令官は、8月28日に先遣部隊が入った厚木基地に30日に到着、横浜にアメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)を設置した。9月2日、東京湾上のアメリカ海軍艦船ミズーリ号において日本政府代表と大本営代表が降伏文書へ正式調印、総司令部が陸海軍の解体と軍需生産の全面的停止を指令、占領政策が動き出した。ついで、19日にプレス・コード〈日本に与うる新聞遵則〉、22日にはラジオ・コード〈日本に与うる放送遵則〉も出され、10月から新聞・ラジオに事前検閲をおこなうこととし、20日にはポツダム宣言受諾に伴う緊急勅令(勅令第542号−連合国最高司令官の要求する事項を実施するための勅令)を公布施行した。なお、新聞は昭和23年7月に事後検閲に移され、24年10月に廃止、ラジオのニュースの検閲は占領終了まで続いた。次に日本の行政組織に対応する専門部局を立ちあげることが必要となり、10月2日に連合国最高司令官総司令部を設置、経済科学局、民間情報教育局、公共衛生福祉局、民政局、法務局などを置いて非軍事化・民主化政策を進める体制を整えた。 |
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