通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
2 占領体制の確立

連合国軍の占領開始

アメリカ軍による軍政開始

北海道軍政部

北海道地方民事部

北海道地区民事部の廃止

終戦連絡札幌事務局函館出張所

北海道連絡調整事務局

終戦連絡札幌事務局函館出張所   P69−P70

 ついで、このようなアメリカ軍の軍政機構に対応する日本側の組織についてふれておこう。敗戦後、連合国軍から占領の開始に当たって、占領軍と日本政府との連絡機関の設置を求められた政府は、最初その所属を内閣直属とするか外務省の機構とするかで意見の対立もあったが、結局外務省側の意見が採用され、8月24日の定例閣議で、外務省外局の「中央事務局」と地方出先機関からなる終戦連絡事務局を新設することになった。8月26日勅令第496号によって同事務局が設置され、翌9月以降、まず横浜と京都に、ついで奈良・呉・横須賀・佐世保等に地方事務局が設置された(前掲『日本占領史研究序説』)。

堤清治郎(『日魯漁業経営史』第1巻より)
 このようななかで昭和20年10月10日、札幌市に終戦連絡札幌事務局が設置され、同16日に小樽出張所、同17日には同函館出張所が開設された。その初代事務局長に就任したのは日魯漁業(株)の取締役だった堤清治郎である。彼は、就任にあたって次のような談話を残している(昭和20年10月24日付け「道新」)。

 何をどうすればよいかは、これから仕事と取組んでからでなければわからない。石井さん(札幌地方事務局長)から函館に関する限り宜しく頼むといはれ、私もこの仕事は大変骨の折れることではあるが、やり甲斐のあることと思つたので進んでお引受けしたわけです。要は誠意とスピードを第一義にして、勝者と敗者の異なつた立場を如何に円満に結びつけてゆくかにあると思ひますから、最善をつくして御奉公をするまでです。事務所は結局日魯会社内に置くことになりませう。

 さて、同年12月15日現在では、札幌事務局(石井康局長・連絡官補4名・嘱託12名の計17名)のほかに、旭川出張所(嘱託3名)・小樽出張所(13名)・函館出張所(嘱託1名)があり、函館出張所は、嘱託の堤清治郎1名のみで、ほかに較べてもっとも規模が小さい出張所であった(終戦連絡中央事務局『終戦事務情報』昭和21年1月)。
 翌21年10月14日、終戦連絡札幌事務局は終戦連絡北海道事務局と改称したが、この段階では、札幌の北海道事務局(北海道庁内・竹内龍次局長)のほかに、函館(函館市真砂町6番地日魯漁業内・堤清治郎所長)・小樽(小樽市稲穂町西6丁目日本通運稲穂支店内・宇田川中所長)・室蘭(室蘭警察署内・樋口順治所長)・千歳(千歳町役場内)・美幌(美幌警察署内・久末喜代松所長)に出張所が設けられていた(終戦連絡中央事務局『終戦事務情報』昭和21年12月)。
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