通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第3章 戦時体制下の函館 学徒の勤労動員 |
学徒の勤労動員 P1206−P1208
翌年になると、勤労作業は、夏期・冬期の休業期間に限らず、随時これを行う方針が採られた。函館中学校では、14年、15年とそれぞれ七飯傷病兵療養所整地作業および函館護国神社整地奉仕作業が実施されている。 昭和16年以降、食料増産が緊要となったため、年間30日以内は授業を廃して勤労作業に当てることができるようになった。函館師範学校では、同年6月と10月に、桧山管内厚沢部村へ勤労奉仕団を送っている。 昭和18年になると、戦局は「決戦体制」に入り、学生・生徒の労働力への期待は一層高まった。6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、勤労動員の強化が図られた。食料増産、国防施設建設、緊急物資生産などへの動員が強化される。ここにきて、学徒勤労動員は、名目上はともかく実質的には国防上、軍事上の労働力の供給という働きを求められることとなったのである。さらに、19年になると、2月に「決戦非常措置要綱」が閣議決定され、3月には、「決戦非常措置要綱に基く学徒動員実施要綱」によって、中等学校程度以上の学徒は、通年動員となていった。また、国民学校高等科についても、土地の事情、心身の発達を考慮の上、勤労動員を実施することとなった。 庁立函館中学校では、この間の昭和18年には、五稜郭操車場土工作業(5年生)、亀田村援農(2、3、4年生)、場所不明(4年生)、港湾荷役(5年生)、食料営団函館支所(3年全組)などへの勤労動員が実施されたといわれている(前掲『七十年史』)。函館中学校の例でみると、19年も市内市外の工場への動員、厚沢部、知内、木古内、東瀬棚、利別、太櫓、上ノ国などの村に「援農」作業が行われ、さらにこの年の勤労動員には、八雲飛行場緊急工事、鉄道作業、荷役作業などが記録されているという。 戦局がいよいよ緊迫した昭和20年には、勤労動員は遠く名寄の造材作業をはじめ、枝幸郡中頓別村、新得町、狩太村、十勝豊頃村、厚岸町、浜中村などでの「援農」へと教育機能をほとんど停止したままで実施されている。こうした事実は、他の中等学校でも全く同じである。しかもこのような勤労動員は、敗戦と同時に終わるのでなく、20年の11月まで続いている例もあるのである(同前)。
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