通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第3章 戦時体制下の函館
第4節 戦時体制下の教育
2 中学校の教育

中学校教育の全国的動向

函館市立中学校の設置

函館高等計理学校の設立

函館市立工業学校の設置

函館市立高等実修女学校の設置

函館市立商業学校の設置

函館市立高等実修女学校の校名変更

私立学校の設置

学徒の勤労動員

学校転換

私立学校の設置   P1205

 昭和13年10月7日付四倉ミツヱ外1名から文部大臣あて提出されていた「函館昭和女子高等技芸学校設立認可申請」に対して、「職業学校規程ニ依リ左記実業学校ヲ設置シ昭和十四年四月ヨリ開校ノ件昭和十四年三月二十八日認可セリ」という告示がなされた(昭和14年3月30日文部省告示第172号)。「告示」によると、同校は位置を函館市西川町とし、設立者を四倉ミツヱ外1名とし、入学資格を高等小学校卒業程度とするものであった。
 また、明治初期の創立以来、キリスト教にもとづき函館の女子教育に多大な貢献をしてきた遺愛女学校(各種学校)の廃止および遺愛高等女学校の設立が昭和19年3月31日付け認可されている。「告示」によると「専門学校入学者検定規程第十一条ニ依リ指定シタル北海道函館市所在遺愛女学校ヲ昭和二十年三月限廃止ノ件及中等学校令ニ依リ左記高等女学校ヲ設置シ昭和十九年四月ヨリ開校ノ件昭和十九年三月三十一日認可セリ」というもので、宗教教育は否定され、文部省管轄の学校に変更させられているのである(昭和19年6月5日文部省告示第957号)。遺愛高等女学校の設立者は遺愛高等女学校財団であった(国立公文書館所蔵、文部省文書課関係文書「遺愛高等女学校設置」)。
 同じく、明治前期の創設以来、大正、昭和と女子教育上の実績を積み重ねてきた聖保祿女学校は、昭和4年に「聖保祿高等女学校ヲ北海道函館市元町ニ設置シ昭和四年四月ヨリ開校ノ件認可セリ」(昭和4年2月27日文部省告示第66号)と、高等女学校への昇格を果した。同校は、その後「聖保祿高等女学校ノ設立者ヲ財団法人白百合学園ニ変更ノ件昭和十六年三月四日認可セリ」(昭和16年6月26日文部省告示第706号)と、設立者の変更を行い、さらに昭和17年には「聖保祿高等女学校ヲ昭和十七年四月ヨリ函館元町高等女学校卜改称ノ件昭和十七年三月三十一日認可セリ」(昭和17年4月10日文部省告示第368号)と校名の変更を行っている。

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