通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 4 社会問題・社会事業 経済的影響 |
経済的影響 P812−P816 経済的な影響も大きかった。物価の動きは、やはり激しかった。「暴利を貪らんとする米商 突如米の値上 咄!冷血漢」という見出しが新聞紙上にあらわれるのは9月4日のことであった(「函毎」)。この記事によると、函館の在米は、金森倉庫ほかに6万896俵、函館市民の2か月分ほどもあり、米不足ということでもないのに、震災で移入の見通しがないという「想像」から根拠なく値上げされ、並米1石38円50銭位のものが、一気に、41円50銭とされている。同業組合が小売商に対して、小売の際に、値段不明なので値段はあとから知らせると言っておき、米だけを渡しておくようにと指示しているとの噂さえある。「正しく暴利の手段」がとられている、というのである。 米問屋側の弁明も報ぜられた(9月6日付「函毎」)、米移入の見通しが立たないのは事実であり、函館在米は、市内のみならず、渡島地方一帯から、さらに道内東海岸地方へ回さなければならないもので、市民の2か月分というほどには足りない量である。米の移入難の状況は、広く知られているので一般市民も買いだめにはしりつつあり、実際に品薄の様子にもなる。小売商も買集めにつとめており、おのずと米価は高くなる。同業組合などで米価をつりあげているのではなく、米の売買の状況から「騰貴は自然の趨勢」としてあらわれているのである、というのであった。 いずれにしても函館における物価の動きが激しかったことは事実であり、その傾向は「本道産物漸落し、府県産物昂謄」というものであった(10月2日付「函新」)。大正元年1月を基準とした指数で、この年の8月は、府県産物205.5、本道産物222.0と、本道産物の相場が有利な状況だったが、9月中の様子は府県産物214.2、本道産物207.0と利害が逆転の状況となった。府県産物は運輸の困難で移入難の状況であり、本道産物は、逆に移出困難で市内に滞留するという事情が反映しているのであった。そして産物の品目別の騰落状況が次のように示されている。 府県産物 騰貴 砂糖 鰹節 小麦粉 甲斐絹 綿ネル 判綿 麻縄 洋鉄 鉄釘 板硝子 縄 筵 函館港の対府県、対外国輸移出入額は、出入、それぞれ年額8000万円位なので、前記のような変動が1年間続くとすれば、本道の需要品について384万円の支出増、本道からの供給品について456万円の収入減となり、函館商圏内の本道人の損害は、840万円に及ぶことになるという見方が、函館商業会議所からしめされるのであった(11月2日付「函毎」)。函館市の歳入総額が387万円余(大正12年歳入決算額−『函館市史』統計史料編)という時代のことであるから、この損害額の見通しは大変な規模であった。 ただし、物価動向については次のような見方もあった。9月15日現在では、9月1日現在に比して平均5パーセントの騰貴という極端な状況もあったが、9月末には、4パーセント高位に下って来て、10月15日現在では、2パーセント高位までにもどって来ている、「総じて持合(もちあい)の姿」、「震災による波動は平穏に復したるものの如く」である(11月12日付「函日」)、という見方である。移入品高、移出品安の極端な格差相場が1年間も続いて、莫大な経済的打撃をうけるという前記のような見通しの通りになっていったわけではないことは知られるのであるが、物価の動きの背景には様々な面で影響があったのであり、それは以下のような点である。 海運の動向は、低調とならざるを得なかった。9月中の青函連絡船の輸送貨物は、下り貨物1万2203トン、上り貨物1万8349トン、合計3万552トンであったが、これは、船腹の60パーセント程にすぎないものであった。9月中の就航船は、内航船で汽船577隻、帆船及び発動機船195隻、外航船で汽船52隻、帆船2隻であり、前年同期と比して内航船は半減、外航船は40パーセント減であった(10月4日付「函新」)。 函館税関調査による9月中の北海道における外国貿易は、普通貿易においては、輸出221万1000円、輸入86万5000円で、前年同期に比して、それぞれ62万3000円、50万3000円の減少。漁業貿易においては、輸出11万4000円、輸入724万3000円で、前年同期に比して輸出は15万2000円(57.1パーセント)の減少、輸入は100万4000円の増加となっている。漁業貿易における輸入増は、不漁による価格の騰貴、持戻品の増加、海外不況のため缶詰などの輸入増、仕向地貨物の減少というような理由が考えられているが、その他の減少は、震災による海運事情、金融事情の影響によるものとされている。横浜港経由の仲継貿易の輸出も極端な影響をうけている。缶詰、毛皮類などを横浜へ運ぶことができず、多く、函館、小樽の保税倉庫、仮置場にとどまっているため、9月中の仲継貿易の輸出額29万8000円にすぎず、前年同期の93万3000円減(75.8パーセント減)となっている(10月4〜7日付「函新」)。 これら物流関係での停滞状況の背景には、運輸事情の悪化とともに、金融上の問題があった。各金融機関が融資資金の回収につとめ、貸付はひかえるという方針をとるなかで、9月7日には30日間の支払猶予令が公布されるという事態となるので、いわゆる金融逼迫という状況になる。東京の銀行との関係が、一時的には断絶する事態もあったので函館でも大混乱が生じるところであったが、日本銀行函館支店の援助により事態は緩和されたのであった。しかし、9月中の金融停滞はまぬがれなかった。函館組合銀行の9月中貸出高は2001万7568円であり、前月に比して231万5006円の減、前年同期に比して548万4768円の減となったのである。金融逼迫の感がもっとも切実だったのは、荷為替取組に関わるものであった。9月期は例年、漁業製品、農産物の移出の活発となる時期で荷為替取組の額が、前月までに比して急増するのであるが、この9月中は、前月の取組高より253万1479円の減、前年9月に比しては609万1784円の減(80.9パーセント減)で144万2433円にすぎなかった(10月21日付「函日」)。荷為替は、移出商品の売上代金を、商品移出の時点で(移出先の商人への商品引渡し以前の時点で)入手(融資をうける)できるようにするため取組む為替であるから、これが、金融機能の混乱、融資のひきしめで、不可能になると、函館の商人のもとへの商品代金回収が大きく遅れて資金繰りが困難になるのである。そこで、この9月中に商品担保の融資のみが増加した。9月末残高が217万4999円となり、これは、前月に比して28万370円、前年同期に比して73万265円の増であった。しかし、貸出金利が騰貴するなかでのことであるから、関係業者の負担増は、やはりまぬかれないのであった(10月23日付「函日」)。 また、一般的に、東京、横浜など被災地域との取引の決済は、道義上、遅滞なく現金で決済せざる得ず、一方、京浜方面とは成立しなくなった商品の調達に、新らたに大阪、神戸方面との取引をはじめると、新規の取引のため現金による支払いを求められるので、資金繰りに困難するという事情も生じていたのであった(10月26日付「函日」)。 こうして、日本経済も全体的に震災の打撃が、昭和2年の金融恐慌、昭和5年からの昭和恐慌にまで及んで行くとされる経済状況下に、函館の経済も「事業の縮小、取引の不振…対支輸出に大なる暗影…産業は萎縮し一般商勢の不振は継続」(『函館市誌』)という沈滞の時期をしばし過ごさなければならなかったのである。 |
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