通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 4 社会問題・社会事業 避難者の救護 |
避難者の救護 P805−P807 9月3日午後から避難者の姿をみるようになったが、いわゆる着のみ着のまま辛うじて逃げのびて来た気の毒な様子であり、市役所では、4日夜からは、湯茶、弁当を用意し、医療の準備もしていたが、甚だ不十分との評判であった。東北本線で函館へ戻って来た人たちは、各駅で避難者のために献身的に働いている婦人団体などの活動に感激したのだが、「函館へ来てがっかり」、駅員が麦茶を配っているのと、市役所の人2人ばかりが弁当を配っているだけで、「実に冷淡である」と感じた(9月7日付「函毎」)、「本州では熱狂的に待遇、函館は冷々淡々、愛国婦人会などは何をしてゐる」(9月7日付「函日」)、というような見方があったのである。これらの新聞記事も影響したものか、7日からは、救護事業に参加してくる団体などが目立ってくる。愛国婦人会は、7日夜、30人程で桟橋に出動、弁当、茶の配付や、怪我人への手当や、必要な人へは衣服を与えるなどで活発に活動、キリスト教団も、この日から10人ほどで桟橋に出向き、菓子、果物、半紙などを配り、電報発信の世話や、連絡船から列車まで荷物の運搬を手伝うなどで立ち働いていた。「芸妓連も大活動」であった。各見番の有志芸妓が7日正午頃から桟橋に駈けつけ、避難者中の婦人の髪を梳き、髪を結い、親切な世話で喜ばれていた。 愛国婦人会では、すでに義捐金を集めて、災害地へ送る活動をはじめていたが、来函する避難者の窮状を見て、災害地への送金を一時中止し、すべての避難者に1人あたり50銭ずつを贈与するという活動に切り替え、災害地への送金は、残金があれば実施することとした。7日から、この50銭と仏教婦人会などの提供品や手拭の配付をはじめていた(9月8日付「函日」)。 まもなく、バラック式の休憩所も仮設され、電報受付所、お茶の接待所、薬剤組合の救護所も設けられ、「芸者隊」の髪結サービスもあり、愛国婦人会は交替制で夜11時の列車の発車まで立ち働いていた。「大分熱が出た、桟橋の避難民接待」(9月9日付「函日」)といわれるようになったのである。そして救護活動に参加したいと考える人たちもふえて来て、愛国婦人会では、桟橋の混雑を理由に幹部級のもの以外は活動に直接参加させないようにしていると会員の間で不満の声が出ていると伝えられるようになる(9月14日付「函毎」)。 義指金募集も種々のかたちで行われていた。市は、商業会議所、衛生組合、新聞社などと協議し、市役所社会係を窓口にして募金をはじめた。キリスト教の団体は、戸別訪問で募金活動をするほか、繁華街で、義捐鍋を設置(20円紙幣1束=200円も入れてくれた人がいたという)して、惨状を訴える図解説明の演説をおこない「聴衆黒山」という状況となった。映画など興行関係者は、5、6、7日の3日間、「遠慮の意」を表して休業したが、その後、「全収入の一割を寄贈」する義捐興行を行う映画館も目立った。商品の値段を1割引として、その分を店頭の義捐箱へ入れてもらうという「義捐デー」を設ける商店もあった。市内の各中等学校、小学校も、幼椎園の母の会、仏教連合会なども義捐募金に取り組んでいたし、函館中学校音楽部の義捐音楽会などの行事も人目を引いていた。この音楽会は、14日、公会堂で行なわれ、聴衆1000人程が集まる盛況、入場券の総売上額334円70銭をすべて市役所の募金へまわした。電灯料など諸経費は、函中音楽部の負担するところであった。その他、浴場組合の無料入浴券の提供、髪結業者の桟橋での奉仕、野球の太洋倶楽部の募金活動、市内在住外国人の義捐金(イギリス領事館、デンビー商会関係者など10数人から1000円ほど)、ロシアの漁業家から漁獲物の寄付があった、などの義捐活動の諸相が市内の雰囲気を伝えていた。 |
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