通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 4 社会問題・社会事業 社会的影響 |
社会的影響 P810−P811 震災の社会的影響としては、北海道への移住人口の増加が考えられる。内務省社会局は、大正12年10月、罹災者救済、内国移民奨励のため北海道移住者に対して1戸当り300円の移住補助金を支給(毎年度430戸分)するという制度を定めた。この制度は、「許可移民」とよばれ、出願者のなかから移住後の成功の見込みあるものをえらんで許可を与え、補助金を支給する制度であった。道庁の東京出張所が、移民奨励の新聞広告を発表すると、連日、200名ほども照会してくる志望者があったので、道庁では、移民補助費の国庫負担を申請、これが許可になってこの制度が発足することになったのだという(11月7日付「函毎」)。はじめは、内務省社会局の扱う社会事業として行なわれるものであったが、移民奨励上の効果が大きいとみとめられ、次第に、戸数や補助金を拡充し、昭和2年からの第2期拓殖計画のなかにも位置づけられ、毎年1200戸、移住補助金のほか、住宅補助金の制度も加えて、道庁の扱う拓殖事業として重要な意味をもつ制度となっていったのである(安田泰次郎『北海道移民政策史』第5編)。この制度のもとで、大正期にはいって停滞して来ていた移民の流入が、また、増えてきたのである。北海道への移民の出身府県の主なものは、東北、北陸地方であったなかで、東京が第9位に入ってくる状況になった点は特徴的であった(表2−188参照)。大正期の10年代からは、北海道の人口増加は、自然増の比率の方が大きく、社会増(転入による人口増)の比率は下がり、年次によってはマイナス(北海道から転出する人口の方が多い)になる、すなわち北海道が人口を吸収する内国植民地的な性格を失いつつあるといわれる時期になっていただけに(『新北海道史』通説4第1章)、東京からの移住はやや目立ったものである。 函館の大正期の人口変動の様子は、表2−189のとおりである。大正12、3年の入寄留人口が目立って多いことや、前年比人口増で、大正13年が8732人で、やはり前後の年次に比べて多いのが注意をひく。これらの人口増が、罹災地からの転入なのかを知ることができないが、人口流入にともなう問題もいろいろ言われていた。避難者のうち2000人ほどは函館に居住することになりそうだが、戸数でいうと350戸くらいで余り多くないのは、芸娼妓のような人たちがかなりいるからである(11月26日付「函日」)。すり、詐欺師、大道芸人が「師匠」に化けて子女をたぶらかすもの、「徴兵忌避のやうな危険思想」をしゃべり散らすもの、…いろいろなものが入って来ている、市民は「警戒」につとめなければなるまい(12月10日付「函新」)というような新聞記事がみられ、また、大正10年の大火以後、特に人口増が著しくなった東部地区では、新設小学校1校が予定されていたが、「震災でオジャン」−市で資金計画がたてられなくなって新設は無理、千代ヶ岳、新川、巴の3校で5教室くらいの増築で「禰縫」するだけとなった(11月27日付同前)と、人口増への対応もままならぬ様子や市内が騒然となる様子などが伝えられているのである。
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