通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 4 社会問題・社会事業 社会問題と社会事業 |
社会問題と社会事業 P816−P818 大正年代から昭和初年にかけての時期は、第1次世界大戦をめぐっての好景気、戦後の不況、更に世界恐慌の影響、そして戦時体制への移行と激しい社会的動揺の時期であった。この時期に北海道への移民の規模はピークをむかえ(大正8年の9万1465人が、明治〜昭和の各年次で最高の移民数であった)、減少傾向がみられるようになっても、年々、数万人の移民があった。ただし、農産物価格の下落、開拓適地の減少は、移民の質に変化をもたらしてくる。「目的職業別来住者」のうち、農業来住者数が減少して来て、大正9年からは雑業来住者数が首位を占めるようになってくる(『新北海道史』通説4第1章)。雑業的人口、すなわち都市的人口の増加が顕著となってくるのであり、函館の人口も、この時期に最も目立った増加を示すのであるが、この雑業的人口の北海道への入り口、あるいは出口(同じ頃、北海道から流出する人口のうちでも雑業者が最も多くなる)にあたる函館で、失業、貧窮をめぐる社会問題も特別に目立つことになる。仕事を求めて渡道して来た人たちが、「奥地」をまわって、うまく行かずに戻って来て函館に滞留する、というような状況もみられたからである(大正14年7月9日付「函新」)。国家予算による拓殖計画が、大規模にすすめられつつある時期だったので、鉄道、道路、用水などの工事に多くの労働力が投入されていたが、土工部屋の労働者使役には、惨酷な問題が伴っていた。苛酷な重労働、みせしめとしての暴虐な制裁(死に至る例も珍しくなかった)、そして約束の賃金も支払われない、というような事件がおきていた。天塩の幌延で鉄道工事に働いていたが、賃金分の資金を持ち逃げされたという理由で、1円50銭だけ支給され「放逐」された。しかたなく歩いて帰ろうと、雪のなかを20日もかけて函館までたどりつき、疲労困憊、警察に泣きつき、新川病院に収容された土工夫がいた(大正14年1月15日付「樽新」)とか、寒さに追われて函館まで戻って来た土工夫たちは、浮浪者の状態となっていて、空家に入りこんで焚火をしたり、夜中に歩きまわって「危険千萬」(昭和2年2月7日付同前)とかのニュースが真冬の函館で取沙汰されるのである。不況、凶作の影響で、「家庭の犠牲となって売られて行く娘たち」が、道内からも他府県へ多く出ていったが、樺太、東京へ向かうものが一番多い(全道で3712名のうち1214名)、出身地では、函館が非常に多く、全体の6割近く、2007名に及んだ(昭和9年11月14日付「北タイ」)、という状態もみられた。北海道と本州との接点である港湾都市、大火の影響も繰り返された社会的条件など、社会問題を抱え込む条件は、目立っていた。 函館ほど乞食の多いところはない。高大森(現在の高盛町のうち)の乞食部落には170戸、300人位もいる(大正元年9月3日付「函日」)。大正5、6年まで莚囲いの異様な家ばかり並ぶ高大森は、薄気味悪い感じのところだった(大正11年5月4〜7日付同前)。
慈善事業の動きも「とくに函館は他よりも早く着手され」たと指摘される(『新北海道史』通説3第6章)条件があったことになる。棄児の養育のための育児会社(明治4年創立)、「貧民ノ子弟」のための「無月謝」の学校、鶴岡小学校(明治10年創立)、恵以小学校(明治23年創立)、貧しい盲児たちを養育する訓盲院(明治28年創立)、これらの事業については、『函館市史』通説編第2巻がすでに触れている(第10章第2節、第13章第1節、同章第4節参照)。このほかにも、明治期からはじまっている慈善事業、その施設が、やはり、民間有志の力で続けられていたが(後述)、大正年代になる頃から、貧困の問題が、個人的な怠惰や不運の問題というより、社会制度などから生ずる問題としてとらえなければならないという点に注意が向けられるようになる。労働者保護、農民保護を意識した社会政策上の立法、社会事業を支えるための立法がおこなわれ、職業紹介法(大正10年)、公益質屋法(昭和2年)、救護法(昭和7年)等々にもとづく様々な活動が、民間の諸施設、また公的諸制度の動きとして目立ってくるのである。以下に、主な事業の概略に触れておく。 函館慈恵院 P818−P821
昭和7年に救護法が実施されると、旭川市立養老院、財団法人札幌養老院などとともに同法による救護施設とされたが、この頃慈恵院は、東川町の本部、中央病院、高大森の大森病院、五稜郭の育児舎、養老舎ほかに託児所2か所(本部内と大森町)を経営しており、「道内随一の慈善団体」(三吉明『北海道社会事業史研究』)といわれる活動をしていた。 経営の財源は、賛助員の寄付金のほか宮内省、内務省、北海道庁などの助成金であったが、この頃の社会事業の通例で、地元有志の拠金が重要であった。相馬哲平10万円、寺井四郎兵衛1500円と土地2657坪というような支援があって、経常の運営や何度かの火災被害のあとの施設復興が可能だったのである。 連年の補助金などは、道庁補助金(明治37年より)、内務省事業奨励金(明治44年より)、市役所補助金(大正4年より)、宮内省下賜金(大正15年より)があった。 昭和9年3月の大火では、施設の大半を失ったが、わずかに残った五稜郭の養育部の施設で400人以上もの人々を収容、救護にあたり、巡回施療班を組織して市内を巡回、路傍や居宅での傷病者の診療につとめるなどの活動をすすめており、施設の復興にもつとめて、昭和10年現在で、次のような施設を整えていた(『函館大火災害誌』)。 敷地 本院 函館市本町 二九二二坪 分院 同五稜郭町 四一八四坪余
上田大法(1869〜1946) 新潟県出身。曹洞宗高龍寺の住職。吉祥女学校(私立小学校、地蔵町、明治22年創立、大正5年閉校)の設立など市内の社会教育の分野で活動、慈善事業にも協力していた。函館を去り、東京にて死去(前出『北海道社会事業史研究』)。 寺井四郎兵衛(1867〜1949) 函館生まれの人。苦労して家業を発展させ、金物店、陶器店などで成功。雑貨、機械、電機、地所経営など多角経営で産をなし、社会事業に力を尽くした。慈恵院理事長をつとめたほか、自己の所有地で小公園(千代見園)をつくり市民に提供したり、児童館、図書館を建てて無料開放するというような事業もおこなった(北海道社会福祉協議会編『北海道社会福祉事業史』)。 なお、慈恵院は、昭和21年、函館厚生院と改称、昭和27年からは社会福祉法人として、中央病院、五稜郭病院、育児院、養老院などを経営し、社会事業団体としての活動を継続している。 函館無料宿泊所 P821−P822
大正10年の新聞記事には、次のような活動状況がみられる。道庁から200円、内務省から100円の奨励金を得ている。100人収容できるが4月1日現在では30人程が宿泊、ドック会社、鉄道の工場、浜の雑夫などの職を世話する。日給は1円から1円20銭くらいの仕事だが、宿泊は無料。食費分(1食15銭)は支払うが、残りは本人のものとなる。「不都合なもの」もいるが、「善良のもの」も多いという(4月1日付「函日」)。この年に職業紹介法が施行されると、それにもとづいて職業紹介所を付設することとなっている。 大正13年、仲山を海難事故で失うが、その後も、大正6年から財団法人となっていたこの事業は継続され、大正14年、新川町310に新舎屋をつくり移転、昭和9年大火のあとは、新川町235に移転(新築落成は、昭和10年9月)。この大火の直後は収容施設を失っていたが、函館東部職業紹介所を新川町昭和橋際に開設して、罹災失業者などの救済に努めていた。 活動状況をしめすものとして表2−193・194のような統計がある。 なお、函館無料宿泊所は、昭和2年は函館職業紹介合宿所、昭和5年函館北聖院、翌6年は函館共働宿泊所という名称の変更をおこなつている。
函館盲唖院 P822−P826
明治37年にはワドマンも去り、篠崎が2代目院長となり、明治45年からは私立函館盲唖学校としての経営につとめ、給料の分はすべてを事業経費にあて、生活費は、夜のマッサージ業や童話会や少年雑誌の原稿などのわずかな収入でまかなっていた。こうして在米の匿名婦人団体の支援から独立(大正3年)、施設も馬鉄会社の解体材をもらいうけて、汐見町に改築、移転、大正3年10月10日独立、創業20年の記念式を行っている。しかし、篠崎は過労のため、マッサージ業で市内を流し歩いているうちに倒れ、36歳の若さで亡くなってしまう(大正6年)。この頃の新聞は、自ら盲目の身で盲唖教育に献身した篠崎を「殉教者」と評価した(大正13年11月23日付「函日」)。なお篠崎の平民新聞読者会をめぐる社会活動などについては『函館市史』通説編2の第13章に触れられている。 一般市民の盲唖教育への支援は十分でないなかで、大正9年9月の台風で校舎倒壊の被害もあったりして、事業経営は、困難を極めるものであった。大正12年度の収支状況を伝える新聞記事には、盲唖院の窮状として、12年度支出4490円を要するところ、収入は、後援会1000円、市補助200円、教育会補助230円、地方費補助500円、授業料90円、愛国婦人会補助400円、寄付870円で、1200円不足という状況を紹介している(大正13年2月11日付「函新」)。公的な助成は、必要経費の5分の1程度、あとは民間有志の拠金、不足分は学校経営に直接携わる教員その他の人々の身を削るような犠牲によって維持されていたのである。この頃のこととして『斉藤與一郎傳』の「盲唖学校の復興」の項は、次のような叙述を載せている。 大正11年5月のある日、聖公会牧師の伊東松太郎(篠崎のあと校長となっていた)が斉藤を訪ねて来た。病気で引退する自分のあと、校長を引き受けてくれないかという依頼であった。区立精神病舎医長、区立伝染病院医長を兼任、教育会長、医師会長の任にもあり、多忙を極めていた斉藤であったが、目の前で喀血するほどの重症の伊東の依頼を断ることはできず、後援会を組織して事業の支援を強化することを約束した。その後数日して、みすぼらしい姿の女性の来訪をうけた。盲唖学校教師で会計係を担当している人であった。彼女は恥ずかしそうに帳簿を見せ、職員の給料支払い方の援助を申し出た。さし当たり80円あれば…というのであった。斉藤は、ポケットマネーから80円を出したのだが、以後、毎月80円の無心が続き、給料生活の斉藤がいつまでも続けられることではなかった。図書館長岡田健蔵に相談すると、函館毎日新聞にいた佐藤政次郎(在寛)に校長をひきうけてもらい、建直し策をすすめてもらおうということになった。佐藤は校長を引き受けると、再建に献身した。雄弁家でもあった佐藤の訴えは、多くの市民に「救済教育」の必要性について感銘を与え、愛国婦人会のバザー、慈善音楽会、「函館商業学校奮起」(全校生徒が、親戚、知人などからの募金にとりくむ−大正14年2月15・22日付「函新」)というような活動があらわれ、全道各地の学校からの募金、市内有志からの寄付も活発で、大正14年8月2日までの募金総額3万2654円11銭5厘と伝えられるほどであった(8月2日付「函日」)。 敷地として、元町の公会堂裏、地方費地の払下げを得て、本校舎(木造2階建、210坪余)、寄宿舎(木造2階建一部3階建、113坪余)が大正14年5月落成。大正12年8月以来、正式の学校として認可され、同時に財団法人組織の事業に編成替えされ、佐藤政次郎校長のもとに盲唖学校の再建は成り、安定した経営となったのである。 『函館市誌』に記される昭和10年頃の状況は、次のようなものである。 経営維持の母体は約500名の後援会、宮内省の下賜金、文部省、道庁、市などの補助金、篤志家の臨時寄付なども財源となり、年間支出1万2000円ほどになっている。収容生徒数は、盲生33人、聾唖生61人、初等、中等部に分かれ、修業年限10ないし11年、速成の別科は2年となっている。教育内容は、普通教育をおこなうほか、職業教育として、盲生にはマッサージ、鍼、灸術、聾唖生には、裁縫、洗濯、理髪などを課している。教職員は18名であった。
6月20日は静養、21日、ヘレン・ケラーは、函館盲唖学校を訪問、同校の設立以来の経緯を聞いて非常に感激し、佐藤校長を称揚して「単なる教育家ではなく、人生に於けるノーマルな幸福を造り出す人格者」と語り、生徒から贈られたメリンスの振袖を大変喜んですぐまとってみせるなど、いろいろ交歓し、また盲唖生を激励してのち、小樽へむかって去っていった。函館の盲唖教育関係者は大いに激励され、また面目を施したとされる(『斉藤與一郎傳』)。この来訪に関係して、『北海道社会事業』誌には、佐藤在寛「ヘレン・ケラー女史に寄す」(昭和12年7月号)、函館盲唖院「盲聾唖生の感銘(ヘレン・ケラー女史を迎へて)」(同8月号)という記事が載せられている。 |
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