通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 邪宗から「異宗教」化するキリスト教 |
邪宗から「異宗教」化するキリスト教 P778−P786 既述したように、近代天皇制国家にあって、明治6年2月24日のキリスト教禁制の高札徹廃に至るまで、全く邪宗視されていたキリスト教界も、これを一大契機に日本人に対する布教伝道もようやく自由となった。長いキリスト教厳禁の歴史を背負うだけに、全国民は勿論のこと、函館にあってもそれまでの道程は厳しく長かった。日本全体でいえば、キリスト教が近代天皇制の制度的にも思想的にもその信教の自由を保障されたのは、明治憲法の発布においてであるとみてもそう大過ないだろう。しかし、函館の場合、他にさきがけ明治6年以後は、徐々に市民の間に浸透していったとみてよいだろう。 キリスト教がこのように、邪宗から「異宗教」の時代を迎えることの意味は、測り知れず大きい。同じ宗教の範疇でありながら、邪宗視されていた時代には、神道や仏教と同一の宗教という土俵に登ることが出来ず、全く排除される対象でしかなかった。それが、いくつかの段階を経ながらも、明治22年に至っては、日本における自国の宗教、すなわち「自宗教」ではないにしても、この「自宗教」と理論的には相対化される「異宗教」として遇されるに至った。つまり、キリスト教界も異国の宗教すなわち「異宗教」として日本における「自宗教」たる神道や既成仏教と同じく、同一の宗教という土俵に登り、そこで自由に信仰なり伝道なりが可能になったのである。 函館において、この邪宗から「異宗教」へと変容するキリスト教界が、具体的にどのような足跡を残したかについては、表2−184の「函館におけるキリスト教会」と表2−185の「函館におけるキリスト教会の沿革」にその多くを譲るが、一口に函館におけるキリスト教界といっても、その教会派の出自する母国がどこであるかによって、すなわちその当時の日本人の対外認識の仕方によって、教会派に対する見方も大きく左右されていた。その顕著な例が函館において、ハリストス正教の中に現実のものとなった。明治37年2月のことである。
こうした衝撃的な事件も影響したのであろうか、函館において「異宗教」として「自宗教」と同じように、信教の道を説かんとするキリスト教界は、明治天皇の不例・崩御に際しては全く同様な宗教的対応をした。 明治45年7月26日の聖公会による明治天皇の「御平癒御祈念」を初出として、同28日には天主堂、同29日には正教会が平癒祈祷を行ない、同30日に至っては、キリスト教連合の祈祷が信徒とともになされている(「函毎」)。 その祈祷の甲斐なく崩御されるや、キリスト教界も、前の「自宗教」の神社・仏教界と同じく、「当地聖公会・メソジスト教会・組合教会・日本基督教会の4基督教会は連合して、陛下崩御に付き敬弔祈祷会」を挙行した(大正元年8月1日付「函毎」)。 こうしてみれば、明治天皇の不例・崩御の宗教的対応において、表面的には「自宗教」と「異宗教」の差異は認められず、ともに近代天皇制の中で同一の歩調をとっていたことになる。 この表面的には全く差異のない「自宗教」と「異宗教」たるキリスト教において、ある決定的な宗教ないし歴史観の差異が現実のものとなった。それは、国内的には自我や人格の確立を民主主義的思潮の中に主張して止まなかった、世に言う大正デモクラシーの時期、対外的にはロシア革命が進行し、首都ペトログラードで「パンよこせ」と求める市民が「三月革命」を成功させた大正6年の8月のことである。 その宗教・歴史観の決定的差異とは、他でもなく、招魂社の参拝問題の中に現実化したのである。これは天主公教の一信徒の論説の中で表明化したものである。天主公教の機関誌『こゑ』第501号は、「函館に於ける招魂社参拝問題」の見出しで大略こう主張している。 去る大正6年6月8日付の「函館新聞」は、「教育界の重大問題、函館中学及び小学校の態度如何」と題し、天主教の司教ベルリオーズ氏の「我等が信奉せる唯一の天帝以外には絶対礼拝せず、吾人は此の招魂社祭典に列するの義務を有せず」の言辞を、反国家的行為のように見倣している。また、同新聞は「神社崇敬と基督教の敬神と思想上相容れざるものと解するは錯誤も亦甚しきものと謂ふ可し、寧ろ敬神思想は進みて神社崇敬の念を充実せしむるもの」と捉え、かつ「道徳は一国の国体風俗習慣と相待って発達するもの、日本に於ては祖先崇拝、神社崇敬は国民道徳の基礎を成すもの、之を認めざる宗教は反道徳的宗教として排斥せられざるを得ず、基督教徒中、往々斯る反道徳的に偏するものあるを耳にす、是れ真の基督教にあらず、誤れる基督教なり」と糾弾したのである。 この「函館新聞」によるキリスト教批判、とりわけ天主公教の「招魂社参拝」拒否をめぐる論説に対して、天主公教側は概ね次のように反論して自説の正当性を展開した。 すなわち、「我等公教徒の眼より見れば、招魂社が神道と云ふ宗教の儀式に依りて行はれ、単に崇敬するに止まらずして、之を全能なる造物主の如き神として拝み、之に色々の佑助(たすけ)を祈求める、これは迷信的儀式に他ならぬ。靖国神社では、他の神社と同じく、祈年祭の時には、そこに祀られている軍人の霊魂に向って五穀豊饒を祈り、天長節などには天皇陛下の万歳を祈り、戦争の時には戦勝を祈り、御悩の時には御平癒を祈る。是は哲学上にて魂魄崇拝、アニミズムと称するもので、我等の与し能はざる迷信である」と。 そして最後に、「招魂祭より此等の迷信的分子だに除去すれば、吾人は喜んで其祭典に参加する」と、体制的な「函館新聞」に対して鉄槌を打ち込んでみせた。 この天主公教側の招魂社参拝拒否の論説は、別言するなら、招魂社不拝に名を借りた、広義的には、神社神道=国家神道の拒否でもあり、その意味では、「異宗教」による「自宗教」の護持する近代天皇制批判であるとみても大過ない。 この大正6年の「異宗教」たる天主公教による「自宗教」「体制宗教」批判は、近代函館は勿論のこと、北海道近代思想史上においても、特筆に価する論調であった。 天主公教はこの画期的な批判論調の他にも、函館の近代思想界に多大な足跡を刻んでいる。それを伺うひとつの手立てとして、久保田恭平氏の手稿「日露戦争後、太平洋戦争終結に至るカトリック教会と函館」を参考にして作成した別掲表2−186「カトリック教会と函館」を年表化して示しおきたい。
まず、創立されて10年余を経た「トラピスチヌ」修道院(天使園ともいう)について、「函館日日新聞」は明治44年5月29日付で、大略こう報じている。 天使園 湯川温泉場を去る約一里 本園は上磯郡茂別村トラピスト修院長岡田普理衛に於て明治三十一年創立せるもの(中略)所有に属する土地は宅地九反(中略)、畑一丁三反、山村十町八反余と牧場四十三丁余、園員は園長マリヤゼアシウヲアンの外、外国人十二名、内国人二十五名にして、之を二分し一部は専ら修道を専務とし、他の一部は牧畜産業をなし傍ら修道をなすもの(中略)為之付近の牧畜業向上発展し多大の利益を受けつつあり。 この作業分担について、大正5年の『渡島管内町村誌』は「白衣ヲ纏フモノ専ラ修道ニ身ヲ委ネ、他ハ茶褐色ヲ着シ農業牧畜ヲ営ミ傍ラ修道ヲナスモノ」と伝えている。そしてその生活の様子を、「修道者ハ常ニ院内ニ坐臥シテ一定ノ時間以外相互ノ談話ヲ禁ジ、父母兄弟ト雖モ対話スルヲ容サズ、社会トハ超然別天地ノ生活」であると紹介している。因みに、大正5年の段階では、園員は日本人35人、西洋婦人25人であり、明治44年に比して、23名も増加していた。また大正12年1月24日付の「函館毎日新聞」の「天使園の事業」報告記事の中では、日本婦人38名、外国人17名とあり、日本婦人がこの時期、微増の傾向にあった。一方の明治29年、岡田普理衛の創立した石別村の 「トラピスト修院」について、明治44年の「函館日日新聞」は5月30日付でこう報じている。 「当時日清戦役の漸く克服せられし頃なるを以て一時世人をして軍事的関係を有する外人の集団にあらざるかを疑はしめ」たが、実はそうではなく、全く「宗教関係に過き」ないことが判明。彼らの目的は「心神を清浄にし世塵を避け不屈不撓、自己の所信を行ひ自修自学を本領とするに在り」、同院に於ける修者は、「仏国人八十七名、和蘭人二名、本邦人八十八名であった」と。 このトラピスト修道院においても、原則的には、前のトラピスチヌと同様、「祈祷修士」(司祭を目指す)と「助修道士」(俗に労働修士)に二分されており、前者の養成には一定の学力を要したので、邦人育成にはかなりの苦労を強いられた(『当別トラピスト修道院資料』、上磯町史偏さん室蔵および佐々木馨「上磯の近現代宗教」『上磯町史』掲載予定)。 このように、「異宗教」としてのキリスト教も、函館は勿論のこと、その周縁地域に対しても、陰陽に影響を与えていったのであるが、その多面的な活動として、こんな一側面も見逃しは出来ない。それは「函館日日新聞」が伝える大正12年12月7日付の「函館にも公娼廃止の第一声が挙げらる」という見出しの聖公会の青年達によって始められた公娼廃止運動である。全市に1200から1300枚の呼びかけのビラが撒布され、同紙は「早晩大森遊廓の移転問題が控えて居る矢先、市内の基督教青年によってこの運動が起こったのは少からぬ影響があらう」と結んでいる。 ここにキリスト教による市民の開明化が着実に進められていることを知ることは、そう困難なことではない。 「異宗教」としてのキリスト教が、こうして市民生活に完全に溶け合い、函館における生活をさまざまに彩ることになったが、他宗派のクリスマスが12月24日に行なわれるのに、13日遅れの1月6日に行われるハリストス正教会のクリスマスもまた市民の一大関心事となっていた。その様子を「函館日日新聞」(大正11年1月6日付)は、「薄暗い聖堂に 厳かに燃ゆ燭の明り 金の十字架 銀白の祭服」の見出しで、正教会の降誕祭が露暦を採用するために太陽暦から13日遅れとなっていることを、ハリストス正教会の歴史と併せて詳しく報じている。これなどもまた、やはり「異宗教」「異文化」を併せ持つ函館ならではの文化経験、カルチャーショックであろう。 函館の近代文化は、一方では、「自宗教」としての神社・既成仏教および「自宗教」化してやまない「教派神道」とがひとつの文化ゾーンを形成し、また一方の極では、「異宗教」としてのキリスト教界が独自の文化ゾーンを提供するという形で2大文化ゾーンの緊張関係を通して育まれていったのである。その相互の文化的な緊張関係が、時として対立的であったり、また時として融和的であったりしながら、その文化の歴史を築き上げていったのである。 |
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