通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 金光教にみる「自宗教」としての「新宗教」 |
金光教にみる「自宗教」としての「新宗教」 P774−P777 金光教は、金光大神(文化11−明治16年、旧名赤沢文治)を教祖にして、安政6(1859)年、備中国浅口郡大谷村(現在の金光町)に開示された習合神道系の創唱宗教である。42歳の時、大病を患った金光は、陰陽道の崇り神とされる暦神の「金神」を信じ、それを「天地の祖神・愛の神」として捉えた。さらにこれを46歳に及んで自ら救済神「天地金乃神」と神格化し、この「天地金乃神」のもとにおける人間の平等な救済を悟るに至った。いっぽう、金光はこの一神教の「天地金乃神」に祈り、かつ神の言葉を信者に取次ぐ「生神金光大神」の神号を名乗り、慶応3(1867)年には白川家から神主職補任状を得て、布教活動を合法化した。こうして、開教をみた金光教は、その初期において、人間本位の生活訓を説くかたわら、俗的な崇りは否定し、神札の授与・祈祷による金銭調達を認めない合理的にして甚だ開明的な教えを展開した。この段階における金光教は、体制側とは一線を画した「新宗教」としての教義を打ち立てていた。しかし、明治33年に教派神道として公認されたのを機に、前の天理教と同じく、徐々に、他教や他派と同じく、天皇崇拝を容れつつ国家主義に傾斜していった(『概説金光教』(金光教本部数庁))。 創唱宗教として、民族的・限定的性格を帯びつつ、その中に普遍的価値を志向することに始まったこの金光教を、北海道・函館の地に最初に伝播したのは矢代幸次郎(安政4−大正13年)であった。時に明治24年9月11日のことであった。和歌山県に出生した幸次郎は、明治19年、島原教会の杉田政次郎を介し入信するや、師ともども明治24年、北海道布教を決断。幸次郎は師匠杉田他4名と共に、開通なったばかりの東北本線を北上し、9月11日、函館にその第一歩を踏み入れた。当初の蓬莱町の借家から、青柳町の現在地(青柳町15−28)に移転したのは、明治26年であり、翌27年に五十嵐孫太郎(のちの初代小樽教会長)の援助により函館教会を新築。言うなれば、金光教はここに本来的な教義を体制的に改変する形で、半ば擬似「体制宗教」の立場をとりつつ、また「自宗教」の意識を持ちつつ函館での都市型布教に専心することとなったのである。その後、大正2年と昭和9年の函館大火により類焼し、現在の教会が新築落成したのは、昭和11年のことである(『金光教北海道布教百年史』)。 劣悪なる経済的境遇のなか、幸次郎は神前奉仕に務め、多くの人々を教化し救済してやまなかった。その数は教師にして40名を越え、函館教会を手続きの親とした教会数は、札幌・小樽・寿都・渡島森・釧路・樺太・秋田県大館・函館東部・十勝・帯広・網走・亀田・青森・樺太豊原・恵庭・札幌南というように16にも上り、それは、北海道はもとより青森・秋田にまで及んでいた。その中の函館東部教会は、幸次郎の手続きにより、大正6年湯川村に山本亀太郎をもって開設した湯川小教会に始まる。当時の信者の多くは湯川芸者であったという。が、その後の布教は順調に行かず、昭和2年に至って、函館市新川町に移転し、名称も函館東部教会と改称(『金光教北海道布教百年史』)。
岡山県に誕生した金光教であり、その周辺地域に教会を数多く営むのは、当然のこととしても、幸次郎による身を挺した北海道布教には実に瞠目すべきものがあり、明治24年の渡道以来、大正13年までの33年間に、前述の如く、直接、手続きの親とした教会は数にして16を数えた。「時代別教会数の変遷」に確認するように、北海道には大正末年までに24の教会が設立されたが、その殆んどが直接・間接的に幸次郎の教化に関わっていた。 このことはとりもなおさず、函館が北海道における「都市型布教」の拠点都市、すなわち宗教ないしは文化の情報・発信の拠点、宗教基地としての役割を果たしていたことを示している。参考までに、「年代別教会設立分布図」と「教会設立年月」を次に『金光教北海道布教百年史』により図示しておこう。 この「設立分布図」が端的に示すように、明治24年〜大正期における金光教の布教形態は、函館・札幌のような「都市型布教」と地方における「宗教殖民型布教」の2形態に大別される。そのうち、後者の具体的な例として、杉田政次郎の北海道開墾事業を挙げることが出来る。 すなわち、金光教の教団史でいえば、前の矢代幸次郎の先輩に当たる杉田が北海道において「宗教殖民型布教」を画して、旭川に93万坪の開墾事業を計画し、砂金採取事業を開始したのは明治31年のことであった。しかし、この計画もその3年後には不運にもつまずき、杉田自身、借財の科で背任の罪に問われることになった(『杉田政次郎伝』金光教島原教会)。 この杉田による北海道の「宗教殖民型布教」は結果的には失敗に終わったのであるが、こうした計画が実践されたこと自体、「新宗教」における「宗教殖民型布教」が展開した事例を物語っており、注目されるのである。 以上、函館における近代宗教構図として、「自宗教」たる神道・既成仏教および擬似「自宗教」とも言うべき「教派神道」についてみてきたが、それでは、これと対極に位置するキリスト教はどうであったろうか。
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