通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 「自宗教」・「体制宗教」としての神社 |
「自宗教」・「体制宗教」としての神社 P747−P755 表2−180の「函館の近代神社」に見るように、各神社にはそれぞれに個別の来歴があるものの、その勧請背景には、地域住民の寄せる土地守護に対する期待感や、豊漁・豊作の祈り、あるいは海上祈念といった庶民の素朴な現世利益観が存していた点においてほぼ共通している。この体制とか政治には無縁の、より現世的な祈りによって祭祀されていたのが、前近代における中・近世神社であったが、近代に入ると、その性格も見事に一変する。
思うに、明治末〜大正期における神社の「体制宗教」の具体的ありようは、次の3つの領域に確認することが可能である。 1つは、近代天皇制の確立者であると同時に天皇制そのものとも言える明治天皇の崩御前後における神社の宗教的対応である。 明治5年の教部省と教導職の設置に始まった近代天皇制の普及および神道の国教化政策も、同10年の教部省の内務省移管、さらには同17年の教導職の廃止をもって一段階を画し、いよいよ国家神道=神社神道の道筋は明確となった。明治政府によるこの国家神道化の基本政策は、これ以後、地方レベルにおける地域的組織化として現実化していくこととなる。 すなわち、函館においても明治43年に至り、神官相互のヨコの組織化ともいえる函館神職会が結成されることとなり従前の中央からの命令伝達に加えて、地域的な結束力が一層、強化されることとなった。 明治天皇の不例とその平癒祈念が連日のように、新聞紙上に報じられるようになるのは、明治45年7月26日からである。例えば、「函館毎日新聞」が7月26日、神社による明治天皇の平癒祈念として、「八幡宮祭典委員及招魂社祭典委員八十余名、八幡宮に参拝して厳粛なる御平癒祈願をなす由」を報道したのを初出として、翌27日には、山上大神宮・東照宮、28日には亀田八幡宮・船魂神社・海神社、29日には稲荷神社というように、各神社において、「陛下の御平癒を御祈念する赤子の至情」を禁じえない氏子による参拝祈念が繰り返された。 が、この国を挙げての神社を媒体とした神官・氏子たちの平癒祈願も甲斐なく、明治天皇は明治45年7月30日に崩じた。明治天皇の崩御は日本国全体を悲しみに包みこんだことは、言うまでもない。神社ではこれを機に、今度は「神職遥拝式」を連日催すこととなった。 すなわち、大正元年8月1日の函館八幡宮の遥拝式を皮切りに、同2日の海神社の報告祭・黒住教・御嶽教・神習教などの教派神道とも称される「新宗教」による遥拝式、同4日の稲荷神社の遥拝式というように、諸神社ならびに「新宗教」による遥拝式が連日、執行されたのである。 明治天皇の「平癒祈念」につぐこの「遥拝式」の後の最大のクライマックスは、「大葬」の儀式である。この大葬が執り行われたのは、9月13日のことである。その日の「函館毎日新聞」は、勿論第1面に「霊柩奉送の辞」を遺影とともに大見出しで伝え、併せて各階層からの「募集和歌」による「奉悼」特集を組んで報じた。 こうした神社による一連の明治天皇の「平癒祈念」および「遥拝式」の営みこそは、何よりも現実的な近代天皇制の思想的基盤を支える神社の「体制宗教」のありようを示しているといえよう。 「自宗教」としての神社がこのように、自らの「体制宗教」としての役割を、まず明治天皇の「平癒祈念」と「遥拝式」の中に発揮し、もって近代天皇制の忠実なる推進体を示したのであるが、これが神社の「体制宗教」としての宗教的実践の全てであろうか。否、そうではない。 「体制宗教」者の神社にとって、不可避的に果たさなければならない第二の宗教命題、それは近代天皇制が対外的に引き起こした戦時に際しての「戦勝祈念」の営みである。 明治37年2月10日の宣戦布告をもって切って落とされた世にいう「日露戦争」について、「函館新聞」はその第一軍が5月1日に九連城を占領したことを、「海上に陸上に王師の向ふ所敵なく、今や制海の権は我れの掌裡に帰し、敵の以て天険となせる九連城は古今未曽有の大激戦を以て我れの占むる所となり」と伝え、これを機して、5月6日に「戦捷祈念臨時祭典」を招魂社に於て行ったと伝えている。 世も改まった大正3(1914)年7月28日に第1時世界大戦が始まるや、日本は中国における利権拡大をめざし、日英同盟を理由に、8月23日にドイツに宣戦布告。「函館毎日新聞」は、この布告を「東京電報」として、「帝国は本日午後零時より独逸国と国交断絶して交戦状態に入れり」と伝え、その中で、「宗教家への論告」としてこう報じた。「此の際、宗教の事に従ふもの、教徒檀信徒を指導して、各自の向ふ所を誤らしめず、奉公の至誠を致すに遺憾なからしむべし」と。 戦時に際して、体制側が宗教家に求めるのは、こうした滅私奉公の道であり、神社においては、前の日露戦争と同様に、「戦勝祈念」をとり行ったことは言うを待たない(大正3年8月25日付「函毎」)。 函館の近代神社は以上のように、一方では自らを「自宗教」と位置付け、また一方では「体制宗教」者として、近代天皇制の直接的推進体を自任して、明治天皇の「平癒祈念」「遥拝式」ないしは「戦勝祈念」に余念がなかったが、こうした営みは何も函館のみの宗教事象ではなく、日本の津々浦々に共通する営みであった。 この明治末〜大正期の北海道宗教界において、函館が少しく特異な面を示すとすれば、そのひとつに明治30年の函館要塞の建設とそれを前提にした大正5年8月の乃木神社の造営を指摘することが出来よう。 明治30年11月に函館要塞砲兵大隊を亀田村に置き、それを第七師団に属させたことに始まる函館要塞司令部(『北海道史』附録、浄法寺朝美『日本築城史』原書房、会田金吾『函館山要塞の終焉U』五稜出版社)の歴史が、軍事的には対ロシアを背景に始まったことは火を見るよりも明らかであろう。対ロシア政策の一環として設置された函館要塞は、その当初より、キリスト教、とりわけ、ロシアを本国とするハリストス正教に対して、強い警戒心を持っていた。要塞司令部は案の定、日露戦争の宣戦布告がなされた明治37年2月10日の前後、ついにその教会の教役者を露探(ロシアのスパイ)の理由で退去を命じるに至った(『近代日本総合年表』)。 いっぽう、明治天皇の大葬の日、すなわち大正元年9月13日に乃木希典夫妻が殉じた。この殉死事件も、日本国中を悲壮と驚異のルツボと化させたことは、言うまでもない。この乃木将軍夫妻の殉死に関して、「函館毎日新聞」も勿論具さに報じた。殉死そのものというより、「函館毎日新聞」はさらに一歩進めてこの乃木将軍にまつわる「乃木神社建設案」のことを、「一代の英将乃木将軍の雄魂を祀りて乃木神社となし国民思想に善感化を与へ兼ねて将軍の偉風を万代に仰がんとする」と報道したのである。 この「乃木神社建設案」が、函館において現実化したのは、その約5年後の大正5年8月のことである。前掲の表2−180「函館の近代神社」に見るように、乃木神社の母胎をなした乃木会の会長は歴代、函館要塞司令官をもって任じられていたことからしても、この乃木神社の建設がいかに函館における近代天皇制の普及、定着に多大なインパクトを与えたかは、容易に推察されよう。 言うなれば、乃木神社の建造によって、函館における神社界はその総体として、「自宗教」としての自己認識ないしは「体制宗教」者としての使命感をより一層、深化させたのである。 函館の神社界は、明治天皇の「平癒祈念」「遥拝式」ないしは「戦勝祈念」を厳修しながら、また、函館要塞や乃木神社の建造を通して、いよいよ「自宗教」「体制宗教」としての宗教的立場を深めつつ、近代天皇制の中核的役割を遂行していった。が、近代の神社において、今ひとつ看過してはならないことがある。それは、他でもなく、地域住民である氏子と一体化する場たる「祭礼」の催しである。 この「祭礼」こそは、ある意味では、神社と氏子との根源的な結び付きの具象である。前の天皇に対する祈念や戦勝祈念は、いずれも近代天皇制の名における歴史的な産物にすぎないからである。しかし氏子とともにある諸社の「祭礼」も、既述したように例祭を除いては全て、天皇制国家に対する宗教イデオロキーの喧伝体そのものであった。してみれば、神社と氏子との心の融合を意味する日常的な「祭礼」そのものに対しても「神社神道」を標榜する近代天皇制の影が大きく反映されていたといえよう。 宗教イデオロキー的には、このように神社の「祭礼」も確かに近代天皇制の一環の中にあったが、1年に一度、氏子たちが「祭礼」を迎え、かつそれを楽しむ姿は、どこかしら、いつも底抜けに明るかった。 その様子を「函館毎日新聞」が伝える大正3年の函館八幡宮例大祭に覗いてみることにしよう(寺林伸明「函館八幡宮大祭の実施状況について」『北海道開拓記念館調査報告』32号所収) 第1次世界大戦の参戦を目前にした大正3年の8月14日、八幡宮例大祭の宵宮祭が午後2時より催された。それには、初めての「里神楽」が興行され、見物人の山ができる程であった。 翌15日には奉幣使の参向があり、官祭を執行。午後より昨日と同様、「里神楽」(維新後、御神楽は宮中に限定されたため、区別するためこう呼称)が催された。この日は「藪入のこととて見物人非常に多く又運動場に催せる奉納角力も非常に繁昌せり」という賑わいをみせた。 またこの例大祭には「十四日午後より運転せる花電車は夜に入りイルミネーションを点じたれば美観言ふばかりなく至る所、線路の両側に人の垣を築き大喝采を博せり」と花電車までくり出した。 大正3年の八幡宮例大祭はこのように、大戦への参加という緊張する世界情勢をよそに、否、緊張する情勢であるが故に、余計に威勢よくしかも賑やかに、「里神楽」のみならず「花電車」まで仕立てての挙行となったのである。 この時期、八幡宮例大祭が、イデオロギー的には、近代天皇制の展開と表裏する形で催されたことも事実であるが、それでも、「里神楽」や「花電車」に日頃の労苦をしばし忘れて輿ずる庶民の顔には、祭礼に対して慰安と娯楽を求めて、本来の祭礼に酔いしれる様子がみてとれる。 神社の年一度の祭礼には、やはり、近代天皇制のイデオロギーとは一線を画す庶民の近世的な現世利益を求めてやまない祭礼の土着的な伝統が、函館の庶民の間にも時空を超えて継承されているように思われる。 以上「自宗教」を自認し、併せて「体制宗教」の中核をもって自任もする神社界について、その近代天皇制との関わり方を、1つに天皇の「平癒祈念」「遥拝式」、2つに「戦勝祈念」そして3つに「祭礼」執行という3領域の中に少しく眺めてきた。 それでは、この神社界に領導されながらも、近代天皇制の破綻なき展開に欠かすことのできない思想的・宗教的役割を演じた仏教界の「自宗教」ないしは「体制宗教」のあり様は如何であったろうか。 |
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