通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 「自宗教」・「体制宗教」としての仏教寺院 |
「自宗教」・「体制宗教」としての仏教寺院 P755−P762 明治中期から大正期の函館における仏教寺院も、「自宗教」として自己認識し、近代天皇制の推進を求められる「体制宗教」であったことは、基本的に前述の神道界と何ら変わらない。つまり、明治政府の進める明治10年の教部省および同17年の教導職の廃止につぐ神道国教化=「国家神道」政策は、大略、明治22年の「帝国憲法」公布をもって完遂され、ここに仏教寺院も神道界と同様、体制の中に組み込まれたのである。 が、その「体制宗教」として果たすべき宗教的役割が仏教寺院と神社界と全く同一ではない。 神社界にあって、庶民の慰労と娯楽の場としても機能していた「祭礼」は、既述のように、神社の本来的な機能であった。神社のこの本来的な「祭礼」に相当するのが、仏教寺院にあっては、幕藩体制下に鎖国制の貫徹を目的に導入されたかの檀家制を基盤にした「葬式仏教」の営みである。言うなれば、近世社会の中で、国教化しつつ「葬式仏教」化した姿こそが、仏教寺院の本来的なありようとして、近代にも受け容れられることとなったのである。仏教寺院にあっては、檀信徒の祖霊供養がまずもって第一義的な宗教課題であった。その具体相は別掲表2−181の「函館の近代寺院」の中に少しく観察できる。函館においても、その表にみるように、32もの仏教寺院が各々、檀信徒との間に財施と法施という「お布施と供養」の関わりを、日常的に持っていたのである。
仏教寺院にあっても、この横の組織化を通して、自らの「体制宗教」としての宗教課題を全うしようとした。結論を先取りしていえば、函館における仏教寺院の組織化の年代を確定することは、史料的に難しいが、明治天皇の不例が報じられ、その平癒祈願が行われた明治45年7月28日の頃までには、その組織化は完了していたことは事実である。 「聖上陛下 御不例に渡らせ玉ふ趣 公布以来、函館仏教協和会、各宗寺院にては毎朝七時を期し御悩御平癒祈念法要を厳修(後略)」(明治45年7月28日付「函毎」)というように、函館においては「協和会」という、仏教界の横断的な仏教組織が結成され、これをひとつの受け皿として、天皇の平癒祈念が行われていたのである。 この「平癒祈念」は、前の神社界と同様、当時の「体制宗教」を担なう仏教寺院としては、祖霊供養につぐ第二の宗教実践というべきものであった。この実践について、新聞は、明治天皇の不例が伝えられる明治45年7月26日頃から、かなり詳細に報道した。 例えば、7月26日付で天祐寺、同27日付で東本願寺(元町別院)、同28日付で天台宗および妙見堂、同29日付で常住寺(明治45年7月「函毎」)というように、仏教の諸寺院は、明治天皇の「御平癒御祈念」を懸命に施行したのである。 こうした仏教寺院の祈祷も甲斐なく、明治天皇が7月30日に崩ずるや、今度は「仏教協和会」主導による「熱涙溢るる崩御敬弔会」が修された。その一コマを、時の「函館毎日新聞」(大正元年8月2日付)はこう伝えている。 函館仏教協和会奉伺
天皇崩御から8年後の、第1次世界大戦のパリ講和会議が開催された大正8年、札幌において「北海道仏教連合大会」の発会式が施行された。その趣旨は、「仏教的信念を鼓吹して国民道徳の根を樹立し、時代思潮を善導して風教の刷新に竭尽し、以て国家の進運に稗補する所あらんと欲す」点にあった(大正8年11月2日付「函日」)。 この北海道仏教連合大会の発会の動きに、前の函館仏教協和会を更に拡大した北海道における地域的一体化を盛り込んだ組織化が一層深化したことを見てとることは、そう困難なことではあるまい。 ところで、仏教界はその「体制宗教」における宗教実践の点についていえば、その史的経緯からして、神社界をあくまでも補完する立場にあった。それゆえ、仏教界が自らの社会的位相をより十全なものにするためには、諸分野において、かなり意識的に活動の輪を拡げる必要があった。 「函館日々新聞」が大正15年6月18日付で報ずる「廿六ヶ寺集り/満場一致決る/川田検事正発起の罪の人を救ふ保護会」という、「函館保護会」の結成などは、そうした仏教界の立場を背景にして誕生した宗教実践の拡張例のひとつであろう。 函館仏教界にあって、これ以外に一際目立つ動きをした例として、典型的な「自宗教」ないしは「体制宗教」ぶりを発揮した日蓮宗を指摘できよう。 そもそも北海道における仏教の受容とその展開を、布教地を物差しにして跡付けると、沿岸型布教と内陸型布教の2類型に分類されることは、既述したところである。その2類型を、時間的にみれば、沿岸型布教が先行し、内陸型布教がそれに追随する形をとったことは、言うまでもない。 一方、この2類型を、中央教団の布教形態でみるなら、都市型布教と宗教殖民型布教と規定していいであろう。さしづめ、函館の場合は、前者に属することになる。 このように、中央の仏教教団との関わりで、都市型布教の対象とされたと考えられる函館の仏教界において、一際、異彩を放つのは日蓮宗の動向である。次にこの動向を、具体的に検討してみることにしよう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |