通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

3 明治末から大正期の宗教界

近代函館の宗教構図

「自宗教」・「体制宗教」としての神社

「自宗教」・「体制宗教」としての仏教寺院

日蓮宗にみる宗教植民型布教と都市型布教

新宗教とは

天理教にみる「自宗教」としての「新宗教」

金光教にみる「自宗教」としての「新宗教」

邪宗から「異宗教」化するキリスト教

日蓮宗にみる宗教殖民型布教と都市型布教   P762−P766

 明治20年代の後半は、日清戦争に象徴されるように、近代天皇制国家の海外侵略が顕在化する時期である。この帝国主義的気運は、中央教団をも当然のごとく、巻き込むところとなり、北海道に対しては、宗教殖民型布教として現実化してきた。
 日蓮宗が海外進出の一環として、この宗教殖民型布教の対象として選んだのは、旭川であった。すなわち、明治26年、旭川に北海道身延別院が創建されることになったのである(『日宗新報』784番)。
 だが、この決定は、旭川の側で寺院敷地を確保し、準備万端、整ったにも拘らず、突如「未ダ北海道別院ノ何レノ地ニ設立サルゝカ不明」という身延山側の一方的な変更によって、反古となってしまった(『北海道布教先回日誌』)。時に明治33年のことである。この変更の理由は、今なお不明である。しかし、北海道別院が反故になったことは、動かぬ事実である。
 この旭川への北海道身延別院の創立の白紙撤回は、ある意味では、中央教団側にとって、宗教殖民型布教における最初のつまずきであった。これを除けば、日蓮宗の北海道における布教は、比較的、順調に推移した。
 そのひとつの例を、岩内の蓮華寺において執行された、明治28年の「日持尊者六百年忌」にみることが出来る。すなわち、「本道開教殖民の始祖蓮華阿闍梨日持尊者六百年忌及び征清戦死病没者追弔」を目的にした、3日間にわたるこの大法会には、昼夜、立錐の地なきまでに参詣者が集い、「開拓殖民の鼻祖」たる日持を欣慕したという(『日宗新報』569番)。
 岩内における日持追慕を通した宗教殖民の思いは、その翌年、東京においても「日持上人御報恩会」の開催となって伝わり、ここに、日蓮宗における「北海道宗教殖民事業」は宗門の一大関心事となるに至った(『日宗新報』588番)。丁度、この明治29年には、台湾布教師である久保田要瑞が、古平・余市を巡回布教している(同前、595番)が、これは前の岩内につぐ北海道における宗教殖民型布教の今ひとつの例とみていいだろう。
 が、この宗教殖民型布教も、「台湾の占領あり、今又樺太の占領ありてより、北海の宗況を告くるもの又聞かんと欲するもの稀」(『日宗新報』明治39年、654番)の一文に端的に示されるように、日清・日露戦争後における宗門の関心事は、明治30年代の後半になると、台湾と樺太に集中して、北海道への布教は軽視されるようになった。ここに至り、「台湾・樺太新領地に眼を注がんとして北海道布教を疎忽にし、北海道は布教其功を告げたる如く、換言すれば北海道は内地と同等の観あるは抑も過れりと言べきなり」(同前)と、中央において北海道は今なお布教対象の新天地であることが、声高に説かれるようになるのである。
 宗門における布教史の流れでいえば、この宗教殖民型布教の停滞およびその打破を受けて登場するのが、実は、わが函館を主舞台とする都市型布教なのである。その様子を、次に少し検証してみよう。
 函館における都市型布教の展開の第一ページは、「函館臥牛山の日持尊者真蹟の経石も、内務訓令に基き古跡保存の内命函館区長に有之」(『日宗新報』明治29年、597番)に確認されるように、函館区が日持の経石保存を決定したことに始まる。それは、旭川に北海道身延別院を創立しようと動き出してから3年後のことであった。この身延別院創立が、明治33年に白紙撤回されたことは既述の通りである。

鶏冠石
 このように、函館区から古跡保存のお墨付きを得た日持の経石とは、今改めて言うまでもなく、遠く永仁3(1295)年1月、日蓮の高弟の日持が異域布教を目指して北海蝦夷の地に渡航し、臥牛山頭の鶏冠形の巌石に「南無妙法蓮華経」の7字を刻したとされる霊跡のことである。
 この経石は、函館区の古跡保存を受けたのち、明治31年、函館砲台要塞築城部より移転を命じられ、船見町山の上に移動した。それが、明治44年の頃には、実行寺の住職・望月日謙によって、かの箱館戦争に因む旧幕府軍の戦死者を慰霊する碧血碑とともに、宗門の内外に宣伝されるに至る(『日宗新報』明治44年、1132番)。言うなれば、明治44年前後には、実行寺−日持の経石−碧血碑が、三位一体となって、函館は勿論のこと、北海道の仏教伝通史の中に自己アピールし始めたのである。望月日謙は、明治44年の皇太子の北海道巡啓の際に、この碧血碑と日持の経石が「御意にとどまり給ふ」ことに大いなる期待を寄せている。ここに、日蓮宗と近代天皇制との異常なる結び付きを観察することは、そう困難なことではない。
 ともあれ、明治末年の頃には、日持に関する函館区民の関心も増え出し、大正年間には「函館毎日新聞」が、例えば、大正2年6月3日付けで、「日持例祭の盛況」の見出しで伝え、「年々日持の例祭に参拝者の多くなったのハ漸く上人の偉蹟が世人に知られたため」と報道するようになる。
 こうした函館における日持に象徴される都市型布教の営みは、宗門の周縁部にも飛び火し、「亀田郡石崎妙応寺に於ては十八、十九日の両日、函館実行寺山主の臨修を請ひ厳粛なる報恩法要を営む(大正6年7月18日付「函毎」)と、石崎妙応寺においても日持の例祭が実行寺の主導で施行された。
 日持を追慕する念は、年とともに深まり、他宗教・他宗派には全く見られない個人信仰が函館とその周縁部において定着する。大正10年の頃には、新聞記事も、6月1日をもって「日持上人の上陸記念の日」(大正10年6月1日付「函毎」)と報ずるまでになっていた。
 大正期は、大正3年の第1次世界大戦の開戦と日本の参戦および大正7年のシベリア出兵に見られるように、対外的には海外進出に彩られた時期である。思うに、この海外進出・軍事進攻の時代思潮を背景にして、海外伝道のパイオニアたる日持は、否応なしに民心を捉えていったのである。
 それは表現を換えていえば、当該期の函館区民や日蓮宗門の信徒たちは、海外伝道者の日持を通して、近代天皇制の海外進出熱を扇動していったのであるし、この扇動によって近代的な日持伝が形成されていったともいえるのである。
 この個人的で特異ともいえる日持伝の近代的伝説を助長したのが函館の思想界であるとするなら、これ自体、函館の歴史における一大特質としてみなして誤りではないだろう。
 このように、日持伝の近代的部分は、函館を思想土壌にして助長・形成されたと思われるが、この日持伝の形成において、今ひとつ看過してならないのが、函館を基地とした北洋漁業の操業である。北洋漁業をひとつの媒体として、日持伝の近代的伝説が形象化されていったのである。すなわち、大正2(1913)年9月21日付けの「函館毎日新聞」は、「日持上人の遺跡露領に於て発見」という見出しで次のような日持関係の記事を報じたのである。

 西比利亜尼古来斯克管内(シベリアニコライスク)の黒龍江付近に日持上人の遺跡探険に来た樺太大泊の日宗寺住職花木即忠氏が、黒龍江外の外ボロング第二十九号函館第三洋組鑵詰部の主任中里寿郎に面談し、その中里氏から日持上人の遺跡らしきものがこの付近にあることを聞き出した

 というのである。
 思うに、この北洋漁業で黒龍江に出向いていた中里氏の情報提供がひとつの契機となって、これ以後、日持の近代的伝説はより一層史実化するようになり、それが大正7年のシベリア出兵に及んで、日持=海外伝道者のイメージが定着することを考えれば、日持伝の近代的部分に占める北洋漁業の存在はかなり大きいのではなかろうか(佐々木馨「日持伝の史的考察」『日本海地域史研究』6所収)。
 このように、日持伝は、函館における都市型布教の中で近代的史伝を内実化していったのであるが、これは独り日蓮宗門内だけの問題ではない。これは、広く函館宗教界全体ないしは函館区の問題でもあったことは、前の新聞報道からも分かろう。この函館と日持との宗教的関わりは、実は、昭和期に入ると、なお一層緊密なものになる(後述)。
 以上のように、「自宗教」および「体制宗教」の両輪としての、神社と仏教寺院を少しく眺めてきたが、北海道のみならず、函館の近代宗教史を語る上で、「新宗教」とも称される「教派神道」の動向は、決して無視できない。これについて、次に着目してみることにしよう。
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