通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第7節 都市の生活と新しい文化 3 明治末から大正期の宗教界 近代函館の宗教構図 |
近代函館の宗教構図 P739−P747 『函館市史』通説編第2巻において既述したように、日本近代宗教史は、明治初年の「神仏分離」・「廃仏毀釈」運動を通した、言わば神道の国教化=仏教界の圧迫という施策の中に幕が開き、この神道と仏教との背反状況が解消され、ともに近代天皇制の宗教的支持体として体制的に位置付けられたのは、明治5(1872)年の教部省の設置においてである。すなわち、明治政府は、これまでの仏教界の圧迫による神道の国教化政策をコペルニクス的に転換し、教部省を設置して、教導職一四級の制度を定めて、仏教界をも含めた国民教化・近代天皇制の普及に乗り出したのである。 教正・講義・訓導などの教導職に任じられた神官・僧侶たちは、「一、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキコト」、「一、天理人道ヲ明ニスベキコト」、「一、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムベキコト」という、いわゆる「三条の教憲」に依りながら、十一兼題(神道の知識)や十七兼題(政治・社会・時事問題)などを通して、国民の教導に当たった。 言うなれば、明治5年の教部省と教導職の設置を通して、神官と僧侶は体制宗教者として創出されたのである。つまり、神道と仏教は近代天皇制国家という体制権力を宗教的に護持する「体制宗教」として捉えられたのである。この「体制宗教」としての神道と仏教は、函館におけるその歴史的位相からみる時、また後述のキリスト教との関わりから考える時、それは自国の宗教すなわち「自宗教」と規定しても、そう大過ないだろう。 とすれば、「体制宗教」であると同時に「自宗教」と見倣されたこの神道と仏教は、近代函館において如何にその「体制宗教」ぶりを発揮していたのであろうか。前編と、多少重複することになるが、近代函館の基本的宗教構図を描写するためにも、敢えて今一度、言及してみたい。 「体制宗教」であり「自宗教」でもある神道と仏教の中で、その首座を占めていたのが、前述の宗教史的経緯からみて、神道であることは論をまたない。 まず、函館における神社の神社神道についてみると、函館には、別掲表2−180(784ページ→「自宗教」・「体制宗教」としての神社)に示すように、社格対象外にある函館護国神社を別として、社格別にみると、国幣中社として、函館八幡宮、県社として、東照宮、郷社として、山上大神宮・亀田八幡宮、村社として、厳島神社・船魂神社・住三吉神社・海神社・稲荷神社(高砂町・上湯川)・湯倉神社・大山祇神社、無格神社として、豊川稲荷神社・大森稲荷神社・稲荷社(台町)・水天宮・乃木神社というように、17社が勧請されていることになる。 この国幣中社、県社、郷社、村社、無格社という具合に社格が決定されたのは、函館支庁の場合、明治9年のことであった。かかる格付けは、種々の面で神社の間の序列として、日常生活の中に反映されていた。その一例として、各社の祭典費用がある。その概要を図表化したのが表2−179「崇敬社郷村社費」(「開拓使公文録」21、北海道立文書館所蔵)である。 これによれば、国幣中社・県社などの崇敬社の祭典費は24円75銭であるのに対し、郷社は14円20銭、村社に至っては8円35銭というように、社格による祭典費には歴然とした序列が厳存していたのである。
ここに、私たちは、神社が神社神道=国家神道の中核を担い、近代天皇制の直接的推進母胎であったことをより明瞭に知ることが出来るのである。地域住民は前の神官・僧侶の教導職による近代天皇制の教示に加え、その地域の神社の氏子として、その祭典に参加し、またその神社に参拝することを通して、確実に近代天皇制の信奉者として洗脳されていったことは、容易に推定されよう。 ちなみに、諸社の祭典費用の財源についていえば、 当支庁管内崇敬社郷村社、祭典費額別紙之通相定、来明治十年一月一日ヨリ施行候條、此旨相達候事 今ひとつ付け加えると、各神社の神宮数とその給費額(年額)は、次のようになっていた。 県社 祠宮一人 金五円 郷社 祠宮一人 金四円 村社 祠掌一人 金三円 神社間には、このような経済的格差があったにせよ、そこで祭祀されるものは、前にみた如く、地域住民を近代天皇制の崇信・信奉へと導く敬神の道であり、それは各社に共通した宗教命題であった。 この神社神道とともに「体制宗教」であり「自宗教」でもあった仏教界と近代天皇制との関わりはどうであったろうか。既述した如く、神官と同様に教導職に任じられた寺院の僧侶にとっては、まず第一に「三条の教憲」に則り、各檀家に対して、祭政一致の近代天皇制の周知徹底ないしは普及に努めることが緊急の使命であった。 檀家ノ子弟ニ無識無頼ノ徒無之様、篤ク三条ノ意ヲ体認シ、衆庶ヲ教導シテ地方ノ風化ヲ賛ケ、政治ノ稗益相成候様可相心得 近世幕藩体制にあっては、檀家制を基盤に、対キリシタン対策の寺請制の実践に勤めることを第一義的な宗教命題としていた仏教寺院であったが、この近代においては、明治5年の教部省−教導職の設置を一大契機にして、神社と共に近代天皇制の一翼を担い、自らをもって「体制宗教」=「自宗教」と任じることになっていたのである。 仏教寺院のかかる近代天皇制の推進体=「体制宗教」とする位置付け方は、大局的にいえば、明治5年を起点にして昭和20年の第2次大戦の敗北に至るまで変化することはなかった。より一歩進めていえば、仏教寺院のその位置付け方は、年代とともに深まって行ったのである(次節に後述)。 「自宗教」をもって自らを任ずる神社と仏教寺院が、近代天皇制の定着と普及を目指して年中行事的に執行した種々の祭典は、実はこの近代日本において、神社と仏教寺院だけで催されたのではなかった。近代天皇制の崇信・信奉化を図った今一つの祭典執行の場、それは勿論、学校である。 学校においても、紀元節、天長節(天皇の誕生日)、元始祭、神嘗祭および新嘗祭には皇室に対する崇信ないしは忠君愛国の志気涵養が、祝祭日の学校儀式として制度化されていた(『明治以降教育制度発達史』3)。 近代天皇制の貫徹のための思想教導が、神社・寺院という宗教施設のみならず、国民教育の学校現場においても展開されていたのである。ここに、私たちは、近代日本帝国の画したイデオロギー支配の測り知れぬ巧妙さを改めて思い知る。 このように、近代天皇制が神社・仏教寺院なる宗教施設に加えて、教育機関をも活用しながら、その浸透を画策していったのは、何も函館だけの歴史事象ではなく、これは全く全国的なものであった。 函館における近代的宗教構図の特性は、そうした「自宗教」たる「体制宗教」としての寺社による近代天皇制の推進という一般的な営みの上に、金光教・天理教などに代表される、いわゆる「教派神道」の受容とその展開があった点にある。「教派神道」とは、一般に幕末〜明治初年において、教祖の創唱宗教に端を発した宗教を指し、それは「新宗教」とも呼ばれた。この「教派神道」は13派からなり、その内容は、神道大数・神道修成派・黒住教・大社教・扶桑教・実行教・大成教・神習教・御嶽教・神理数・禊教・金光教・天理教・神宮教(このうち、神宮教はのち、財団法人神宮奉斎会となる)というものであった。この「教派神道」の函館への布教史を概観すると、こうである。 その先駆けをなしたのは、神宮教で明治8(1875)年、函館に本部を設置している(『札幌市史』)。それより少し遅れて、箱館奉行所の官吏であった平山省斎が大成教の布教に乗り出したのは、明治20(1887)年のことであった(『函館区史』)。 明治13年の頃、北前船々長の土佐卯之助が小樽を皮切りに北海道布教を開始した天理教が函館に進出したのは、明治26年のことである(金子圭助『天理教伝道史概説』天理大学おやさと研究所)。すなわち、森本喜三郎なる人物が函館鶴岡町(現在の大手・若松町)に函館出張所を開設したのをもって、函館での伝道の第一歩とするのである。函館だけに限定すれば、この天理教に先駆けて布教に成功した教派神道は、矢代幸次郎による金光教であった。時に明治24年(『金光教年表』金光教本部教庁編)。また、明治29年には久須美豊作が御嶽教を布教している。 こうしてみると、教派神道と総称される「新宗教」のうち、神宮教・大成教・金光教・天理教・御嶽教などの主要なものが、明治8から29年の時期に函館に伝道の道をとったのである。 この「新宗教」に限らず、仏教・キリスト教も含めた全ての宗教の近代的な北海道布教の形態は類別的にいえば、「都市型布教」と「宗教殖民型布教」の2形態に要約できると考えられる。概ね前者が「前編」で指摘した「沿岸型布教」、後者が「内陸型布教」に各々対応するものである。 したがって、近代に伝道された神宮・大成・金光・天理・御嶽教などの「新宗教」などは「都市型布教」として函館に進出してきたことになる。詳述は後に譲るが、これらの「新宗教」はいずれも、教義的には民衆的で現世利益的な性格を持つ半面、時代とともに近代天皇制の補完的性格をも併せ持つようになり、その意味で優れて「自宗教」といえるものであった。 確かに、「新宗教」の諸宗教は、神社や既成の仏教寺院が形成している「自宗教」が厳存する現実を前にして、布教を展開することは、かなりの難渋を強いられた。しかし一方において、函館においてはキリスト教という異文化を受容しているという現実から、「新宗教」も自ら、比較的容易に、既成の神社・仏教寺院ともども、「自宗教」をもって任じることができる宗教土壌があったと考えられる。 そうしてみれば、函館において、既成の神社による「神社神道」の上に「教派神道」が参入したことは、「自宗教」の信仰圏がそれだけその広さ深さの両面から拡張されたことを意味する。別言するなら、「自宗教」を標傍する「新宗教」が近代函館の宗教界に進出することによって、函館における近代天皇制の浸透・定着は、加速度的に進行していくことになったのである。 近代函館における宗教構図の基本的な枠組みは、このように、既成の神社・仏教寺院と新参の「新宗教」の総和からなる「自宗教」によって構成されていたのであるが、しかしこの枠組み全体は、この「自宗教」のみで構成されていたのではなかった。 「異国宗教」つまり「異宗」としてのキリスト教がその対極に存在していたのである。結論を先取りして言えば、近代函館の宗教構図は、神社・既成の仏教寺院および「新宗教」が形成する「自宗教」信仰圏と、キリスト教諸会派が形成する「異宗教」信仰圏という2つの信仰圏が相互に対時する世界であった。信条的に「自宗教」が「体制宗教」の役割を担ったのに対し、「異宗教」がどちらかといえば、「反体制宗教」の色彩を帯びることになったことは言うまでもない。 かと言って、近代の函館において、「異宗教」としてのキリスト教が受容のその当初から、「自宗教」と相対的関係を有する「異宗教」として迎えられたのではない。キリスト教が函館において「異宗教」として通されるまでには、幾多の苦難があった。 すなわち、「安政5(1858)年の日露修好通商条約とその翌年のロシア領事館設置に、近代函館キリスト教史が始」まったことは、『函館市史』通説編第2巻の 「函館における宗教世界の諸相」で既述した通りである。明治初年は、かの「五榜の掲示」の「定三札」として、「切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ、若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出」と、キリスト教の自由なる信仰は厳禁されていた時期である。 このため、函館においては、「洋教一件」と称されるキリスト教弾圧事件が起こったのである。時に明治5(1872)年。 かかる苦難に始まった函館キリスト教史が合法的な信仰の自由を認められるようになったのは、その「洋教一件」の翌年の2月24日の「禁制高札の撤去」においてである。 この「禁制高札の撤去」も言ってみれば、安政の不平等条約の撤廃を求めるべく、先進の欧米列強を歴訪する中で感得した外交的方策のひとつの結果であり、その意味では、国内総意に基づくものとは到底言い得ないものであった。 それゆえ、恐らく、明治5年の「筥館港ニ於テ、耶蘇教(原文傍点)蔓延ニ付(中略)長崎同様、相当ノ教導職両三名御差下」(『神道大系北海道』)の一文に見るように、あるいはまた明治6年の「中教院興立、三府四港其外ノ嚆矢と相成、(中略)如何にして半途萎靡致し候様ノ儀有之候テハ、独り災を四方ニ伝えるのみならず、更ニ邪徒原文傍点)ノ揶揄を相増可申」(「教部省関係文書」北海道立文書館所蔵)に徴するように、当時の函館においては、「禁制高札の撤去」がなされたあとも、キリスト教を邪宗視する宿弊が一掃されることなく、どこかしこに存在していたのではなかろうか。 キリスト教=邪宗とする宗教観は、相当程度払拭されるのは、全国的には、明治22年に発布された「帝国憲法」第28条の「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」という、いわゆる「信教の自由」を契機にしてのことである。 とするならば、函館におけるキリスト教の受容・展開史は、「邪宗教」視に始まったものの、明治6年の「禁制高札の撤去」を機に、全国にさきがけ、一個の自由な信仰体として、「異宗教」視されるようになったと、段階的に捉えてそう大過ないだろう。 それゆえ、明治初年の頃の近代函館の宗教構図は、神社と既成仏教の構成する「自宗教」を中心に展開しており、キリスト教は「邪宗教」と遇され、「自宗教」と信仰土俵を同じくすることはなく、土俵外に排斥されていた。それが、明治6年の「禁制高札の撤去」によって、その「邪宗」観念を徐々に解消した結果、キリスト教も、相対的な信仰の位相を獲得するに及び、近代函館の宗教界の中についに「異宗教」として根付くに至ったのである。ここに「異宗教」キリスト教が、「自宗教」の神社・既成仏教および「新宗教」ともども、同一の信仰土俵に立つことになったことは、もはや多言を要さないだろう。近代函館の宗教構図は、同一の信仰土俵の上に、「自宗教」と「異宗教」という信仰における相対化の時代を迎えたのである。 以上のように、函館の近代宗教の世界の見取図を、「自宗教」と「邪宗教」→「自宗教」と「異宗教」という概念によって思い描いてみたが、以下これに従いながら、各信仰の具体相を眺めていくことにしよう。 |
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