通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場 T字型桟橋 |
T字型桟橋 P520−P522 日露戦争の勝利は、南樺太−北海道−本州−朝鮮−満州(現中国東北部)の、旅客一貫輸送の実現を、現実の課題たらしめた。単なる一貫輸送の実現だけではなく、より速い一貫輸送の実現である。もう1つ、「富国強兵」「殖産興業」のより速い実現が急務となった。明治39年の鉄道国有化は、この2つの目的をより速く達成するため、国家自ら、新しく現業官庁を創り、これに大量の国家資金を投じ、官吏に輸送実務をやらせるものであった。鉄道国有化は、「戦後経営ノ急務中ノ急務」だったのである(「西園寺公望首相 鉄道国有の趣旨概要」廣岡治哉編『近代日本交通史』所収)。 北海道鉄道会社(函樽鉄道)が発注ずみだった比羅夫丸、田村丸の回航(明治41年3月7日比羅夫丸、4月4日田村丸)がまず問題であった。これを函館と青森に入れ、旅客を安全に乗り降りさせなければならなかったのである。単なる乗り降りではない、当時世界最新鋭のバーソンス式タービンで、3367馬力という途方もない出力を出すこの鋼鉄製巨船(各1480トン、乗客定員436人、貨物239トン)にふさわしい、桟橋、少くとも横付けできる旅客桟橋を作らねばならなかった。これが、函館、青森両港の「急務中の急務」となったのである。 明治37年に函樽鉄道が架設したのは長さ10間(60尺、18.2メートル、幅3尺)というちゃちな木造桟橋であった。貨物用には、別に長さ28尺、幅16尺という粗末な桟橋2基を用意し、艀を使って積卸ししていた。 これに比べると、明治4年、東浜町に作られた木造の長さ5間幅3間の桟橋を改造した延長90尺、幅28尺、高さ水底から16尺(前掲『函館海運史』)の桟橋の方がかなり立派なものだった。だから旅客は、この桟橋に集まったのである。 これに隣接する函館区有の仮桟橋(延長59尺、幅24尺)があって、鉄道院(明治41年内閣直属の新官庁、初代総裁後藤新平、それまでは逓信省鉄道作業局といった)がこれを借入れて、切符の発売所を設けていた。日本郵船を始め函館港入港の船の桟橋は、この旧港湾の桟橋であった(同前)。
旅客連絡船自体がいかに近代的な機械化船であっても、それだけで、すべてオーケーというわけではない。それにふさわしい横付桟橋、旅客待合室、そして鉄道客車への接続が完備していなければならない。この新桟橋をT字型桟橋といったのである。これによって、始めて、国鉄青函連絡船が誕生したといってよい。 T字型桟橋は、延長1128フィート(1フィート=1006尺で約1尺だから、3.28フィートが1メートルとなる。342メートル)幅337フィート(約10メートル)の木造桟橋で、延長だけでも東浜桟橋(昭和4年11月、長さ15間、幅4間半の木造桟橋に改造して、東浜桟橋と命名された。改築費8千円、道庁もち3750円、残りは寄付と市費という、道庁としては誠にケチな負担)の90尺の12倍もある。比羅夫丸の全長が88.93メートルもあるから、これくらいの延長がないとならないのである。のみならず、深さ6.45メートルあるので、桟橋の探さも最低6.5メートルは必要である。このため、その深さの処まで、桟橋が伸びていなければならない。そのため、海底の浚渫、掘削も必要であった。 また桟橋の延長が、陸上から1138フィート、342メートルもあるのだから、駅の待合室の外に、桟橋待合室、食堂も必要であった。食堂は国鉄出入りの浅田屋が請負った。手小荷物はトロリーで運搬した。 |
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