通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場 鉄道院請負業者丸辰組 |
鉄道院請負業者丸辰組 P522−P523
同じ大正7年8月10日の「函館新聞」には丸辰組がその労働者に「官署に勤める者と同様に恩給制度を設ける」ことを報じている。この丸辰組という名が翌大正8年7月20日の「函館日日新聞」にも出ている。生計費暴騰に苦しむ人夫側が月収65円に値上を要求、ストを起し60円で妥結したとのニュースである、この請負制度は、大正14年8月、新造の貨車航送船翔鳳丸型4隻で、接岸荷役を行うに至って廃止された。丸辰組は、「函館日日新聞」の報ずるところでは、陸人夫20余人、沖人夫60余人で大森稲荷の近くに人夫集合所があり、人夫取締というのが全体を監督していた。 だからT字型桟橋の時期、貨物の多くはすべて請負に出して艀荷役をしていたことになる。明治43年12月15日、予算15万円で急ぎ供用されたT字型桟橋は、当時大桟橋と呼称された。 |
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