通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場 第1期拓計と国鉄 |
第1期拓計と国鉄 P523−P524 このT字型桟橋から、国鉄の港湾設備の近代化が急速に、かつ大規模に進められる。それが、明治43年起工、大正7年完工の西防波堤建設(北海道拓殖十五か年計画、第1期拓計)の起工直後に急ぎ建設されたことに注目する必要がある。第1期拓計は、道庁(内務省の出先機関)が計画、実施するもので、鉄道(明治41年12月、内閣総理大臣直属の鉄道院開設、出先機関は北海道鉄道管理局で、現地には運輸、保線事務所が置かれた。大正9年5月15日、鉄道院が廃され、鉄道省が誕生した)とは関係がない。しかし、道庁が、防波堤(総工費137万円余、延長918メートル)および漂砂防止のため、第2防砂堤(延長485メートル、のちの有川埠頭の所)、第3防砂堤(同規模、現七重浜地先)を建設に着手しなかったら、果して、どうなっていただろうか。函館の港湾建設は、そもそもの始めから戦後港湾行政のガンの1つとされたタテ割り行政の一典型を呈していたのである。明治44年11月26日の「函館日日新聞」は、「函館の港湾は道庁と鉄道院と税関との関係があり、妙なもの」と嘆じている。今まで第1期拓計と国鉄との関係が、ほとんど論ぜられていない不思議な現象は、このバラバラ行政にあったと考える。 この貨物の艀荷役は、実は、戦後問題になった「北海道価格」発生の原因にもなっている。昭和9年1月24日の「函館日日新聞」は、「海峡特定運賃撤廃期成会」の結成を報じているが、それは、青函間貨物運賃が陸上運賃に比し4倍の高額になっていることを指摘したもの。その海峡特定運賃の「特定」の理由は、貨車航送実施以前の艀賃が、艀運送廃止後も、そのまま据置になっていることだと指摘している。 |
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