通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第4節 戦間期の諸産業 4 国鉄青函連絡船、比羅夫丸の登場 巨大組織と身分制 |
巨大組織と身分制 P524−P526
もう1つ、注目すべきは、比羅夫・田村丸就航が、現業官庁としての国鉄という巨大な人的組織、組織的大集団発足の号砲でもあったということである。函館運輸事務所が設置されたのは明治40年であり、翌年の両船就航の年、運輸、保線両事務所が東部鉄道管理局の下に置かれ、一時廃止ののち、大正2年4月1日、全国の運輸・保線事務所が復活し、青函航路は函館運輸事務所所属となる(『青函連絡船史』)。外に、車輌を補修する工場があり、大正12年では函館地区の職員数は、男3077人、女84人、計3161人に達している。 この3161人がすべて函館に住んでいたわけではない。管内各駅勤務の人々をも合計したのが、この数字だからである。しかし、その多くが函館に住んでいたと考えていいと思う。三千有余名をもって大組織というのではない。それが、全道を一丸として鉄道管理局(大正9年より札幌鉄道局)の統制下に置かれた北海道一の巨大組織の一員だということを言っているのである。 大正11年の職員表を見ると、本局の外に6つの運輸事務所(函館・札幌・室蘭・旭川・釧路・野付牛)、7つの保線事務所(外に名寄が加わる)、4つの工場(五稜郭・苗穂・旭川・釧路)があり、合わせて、男1万9991人(勅任官1人、奏任官58人、同待遇19人、判任官1437人、同待遇270人、雇傭人男1万2582人、女593人)、外に医師その他の有給嘱託員27名となっている。この時の函館管内の職員の構成は、嘱託を除き、表2−96のようになっている。 この巨大組織の組織原則は身分制である。勅任官(局長ただ1人)、奏任官、判任官、雇、傭人という階級制である。判任官までが官吏、雇庸人は鉄道局の雇用人。この階級制によって給料がきまり、職務が定まるのである。大正12年度の職員3161人の身分構成は表2−97の通り。給料のみならず、福利厚生施設として提供される官舎の有無、規模までが、細かく身分制によって律せられる。福利厚生施設は誠に手厚く、病院、浴場、共済組合(退職年金制度)、購買部設置(日用品の廉売)、家族パス(無料)発行、家族慰安会開催まであった。この労務管理政策は、国有化後、初代総裁後藤新平が打ち出したもので、国鉄の大家族主義といわれたのである。 開拓途上の北海道にあって、この身分制度と手厚い福利厚生制度は誠に有効であった。身分が国家の官吏(もっとも正式には判任官まで。雇傭人は国家の雇用賃労働者)という特権階級であることも手伝い、国鉄職員は団結は固く、誇りに満ちて仕事をしたのである。日本の国鉄の、1秒たりとも違えぬ運航時刻の正確さは、その成果である。現在に至るまで「時刻表」通り動く日本の国鉄の正確さは、世界に冠たるもので、これをもとに日本では戦後トラベル・ミステリーが盛んになった。この巨大組織あって、始めて大正・昭和前期の国鉄の機械化が実現するのである。
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