通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

大火後の復興事業   P734−P736

 さて、昭和9年の大火後の復興事業の特徴は、前述した都市計画法に準じることを基本としながらも、国の経費的補助や北海道庁の職員を動員して実施したことである。また、復興計画自体は、東京市政調査会や建築学会の意見書を参考にしながらも、北海道庁や函館市を積極的にリードした内務省の担当職員の指導力によって形成されている。ただし、昭和4年に決定された都市計画案が復興計画のひとつの指針となったのはいうまでもなく、とくにその街路計画は復興計画の立案に大きな役割を果たした。しかしながら、復興計画は、昭和4年に決定された街路計画が「概シテ幅員狭隘ニシテ交通ノ須要ニ適用スルモノ尠ナク、又近年漸次市街化シツツアル郊外ニ於ケル街路ハ雑然トシテ、彼此脈絡系統ヲ為セルモノナク」(「昭和4年 公文雑纂(都市計画)」)というように交通系統に関する問題を主として考慮されているのに対し、防火という見地から立案されている。具体的には、焼失区域内の計画幹線道路の幅員を増大するとともに新に防火線としての目的を有する幅員30間の5路線を南北に配置し、同じく20間の1線を東西に配置して市街を縦断するグリーンベルトが設定されていることである(昭和9年4月29日付「函新」)。その他に、住吉町、大森町、新川町の公園の設置や新川町にある裁判所などの官庁街や防火地区、東部方面の上水道の増設などがこの復興計画の中に盛り込まれている。また、小学校は、直接に都市計画として決定はされていないがその位置や大きさは街路、公園等の復興計画と連携させ区画整理設計として決定されている。そのために小学校の位置は、グリーベルトの終端かもしくは交差点の付近に求め、児童教育に閑静な環境を与えるとともに防火線と一緒になって防風、防火の目的を担っているのである。もちろん校舎は、鉄筋コンクリート造である。
 これらを要約すれば、復興計画の骨子は「緑樹帯竝に主要幹線街路を相互交錯することに依り、市内を二十數個の防火「ブロック」に分ち、且つ重要路線に沿ひ防火地区を設定し、街路と耐火建築に依る防火施設の完全を期し、消火施設の充實を図る為に上水道及消火栓を拡張増設し、両々相俟つて将来の大火災を免れしむることとし、更に樞要の個所に公園を築設して日常市民の保健に資すると共に一朝災害発生の際絶好の避難場所たらしめん」(北海道庁『函館復興事業報告書』)との考えかたである。

図2−21 函館市復興街路平面図

現在のグリーンベルトと大森小学校
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