通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

昭和9年の大火の惨状   P730−P733

 大災害の生々しい実感に支えられた、北海タイムス函館支局が主催した記者座談会の一部を抜粋してその惨状を再現してみよう(昭和9年3月25日〜27日付「北タイ」)。

柏岡 函館市は由來大火に度々見舞はれてゐる都會であるが常に復興の意氣に燃えて今日に至つた。今回の大火は被害の程度と云ひ災害の程度と云ひ未曾有のことであるが、本社からは即刻特派員救護班を急派し、支局員と共に焦土を中心に活動を續けて任務の遂行に當つたのであるが、支局員の中でT君及l君は全焼し殊にT君の如き家族の一人を喪つたのもある程である。實に涙ぐましいものがある。私は今改めて焦土の中に起つて大火の跡を偲びたい。先づ被害者の一人で且發火の經過を知つてゐられるT君に御話を願ひたい。
T 谷地頭は火事が少ないところであり、小火だと思つたわけでもないでせうが消防まで來るのが遅かつた。そのうちに段々火は大きくなつた。旋風が起る三十五米突以上の突風でした。火の手は最初山の手に向つた。屋根が飛びその家に火が入り段々燃えて行つた。出火の原因はいろいろと言はれてゐます。よく判りません。一方火は西に向ひ一方は住吉町青柳町相生町に向つたものです。この火の子が風下の五六ヶ所へ一度に飛火し、いよいよ大火となり風速が俄に強く大男でも街を歩けばブツ飛ばされとても起き上ることが出来ませんでした。殊に電柱が倒れる、電線が身体にからむ、看板が飛ぶ屋根が飛ぶといふ状態でした。
柏岡 避難はどちらへしましたか。
T 谷地頭の人は公園の市立圖書館に避難し、青柳町相生町方面の人は大森濱へ、一方海岸に出たものは東埋立地に避難し、さらにそれより東部のものは新川方向に避難した。火は一面にひろがり、十字街方面まで燒けつくしたころ突如東風が正反對に西風に攣りました。その結果、東川町埋立地大森濱の一帯の風上に最初避難してゐた一千余名は、風速三十五米突以上の火燒を伴ひ、西の火風が頭から降りそゝぎ數百名の慘死者を出したわけです。
柏岡 罹災者として、そして今度の火事についてのT君の實感は。
T そうですね、慘死者の西部一帯の人は大火の犠牲になつたと思ひ、私等も燒出されたもの、それらから見ると命びろひしてをりますし、貧富共に慘禍に遭つたのですからケロリとした心境です。
柏岡 東川町の埋立地に逃げた人は群衆心理で避たのでせうか。
T これは最初から安全な上風だつたので、群衆心理で逃げたものとは思はれません。安全だと思つて逃げたのが急に風向の轉換であんな慘劇を演じたのです。加ふるに火の子をさけるのに海につかつてゐたところを、漁期しない海嘯のやうなのが來て海にさらつて行きこれが大森濱へ流したものです。
柏岡 海嘯のやうだといふのは激浪ですか。
T そうです突然激浪が來たのです。
柏岡 新川方面へ追はれて逃げた避難者は、大森と新川橋を渡つたのですか。
T 橋が折損したので川口の浅瀬を渡渉したものもをります。常は淺いがその時に限つて不幸にも滿潮が押寄せて來て海へさらつて行きました。また幅五間ぐらゐの塀を乗り越えて避難した大森の砂山でも大分燒死にました。砂山は火の子を拂はれないため〆粕の下にゐたのがあつたが、この人だちは助かつたのです。
柏岡 私も歩いて見て眞黒になつて倒れているのを随分見たが、今度の火災にこう云ふ哀話は實際數限りなくあることと思ふ。先年の関東大震災と今度のと比較して見てどんなものです?H君は関東大震災の時居られたから、その常時との比較を一つ願ひますか。
H 関東大震災と今度のと比較すると、函館の方が非常に不運であつたと思ひます。荷物を持つて逃げられないのは同じですが、今度のは極寒の時節であり暴風が劇しかつたこと、電燈が消えて暗夜であつたと云ふことが災害を甚しくした原因だと思ひます。
柏岡 燒殘つた家があつたが、燒殘つたのには何か理由があつたのでせうナ、その原因は旋風の為だと思ひます。今度の火災で防火壁は何も役に立たなかつた、土蔵は小さくても見てくれがしのものは大抵燒落ちて居る。それに下の通風口が明け放してあつたこと、土藏の屋根が不完全であつたことなどから火が入つたものと思ふ。
T 残つてゐるものは古い土藏で石の扉で、味噌の如きものを平素用意してゐるやうなのが殘つている。銀座は大正十年の火災に西岡區長が造つた火防線道路だが、當時建物も低資を貸付けて、全部鉄筋コンクリート或は木筋コンクリートにしたものだが、見かけは好かつたが防火には何も役に立たなかつた。函館は風の性質が惡いので、凡そ火事の時は旋風が起るのを普通としてゐるが、今後は完全な防火線を必要とする。


昭和9年の大火を報じる各新聞
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