通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

防火建築の検証   P733−P735


被災した恵美須町銀座通り(浜島国四郎氏蔵)
 昭和9年の大火は、結果的に大正10年の大火後の防火建築の有効性を検証することになった。いわゆる銀座通りは、防火壁としての効果を充分には発揮することができずに、かなりの被害を受けている。このことは、市民の間にも鉄筋コンクリートに対する不信感が広まった。これに対し、都市計画北海道地方委員会は「銀座街は外見恰も耐火構造の建築物を以て満たされたるやの観を呈せしも規定緩に過ぎ且構造調査及工事中の監督宜敷を得ず尚使用材の質極めて粗悪にして而も工事粗略なるに於て豫期の強度を得難きは明瞭なる所にして期待をかけられたる耐火構造群も其効果を発揮するに至らざりしは遺憾とする所なり」(昭和9年5月5日付「函新」)と述べて、耐火構造の外観上とその工事の内実の違いが防火効果をあげることができなかった原因として説明している。
 また、社団法人建築学会でも鉄筋コンクリートが火に弱いという考え方に対して「蓬莱町一帯の防火建築物のくづれ跡を目撃した人々が斯感じたのはまがひの鉄筋コンクリート造りだと誤認していたからである、今回の場合でも本当の鉄筋コンクリート造りの建物は火災を免れて焼け跡の中に完全に残っている」(昭和9年■月13日付「函新」)、と当時の鉄筋コンクリート造の不完全さを指摘している。つまり、大正10年の大火後の復興事業は、大正12年の関東大震災後に一般化する鉄筋コンクリート造りが、いち早く採用されたものの技術面での試行段階にあったことが理解できる。
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