通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


「函館市史」トップ(総目次)

第2章 20万都市への飛躍とその現実

第7節 都市の生活と新しい文化

2 大火と都市形成

大火と都市景観

明治40年の大火概況

大火後の復旧事業

火災予防組合の設置

火防設備期成同盟会の建議

火防調査委員会の建議

大正10年の大火概況

火防設備実行会と防火線

火防の進展と都市計画

昭和9年の大火概況

昭和9年の大火の惨状

防火建築の検証

大火後の復興事業

大火史から見た地域課題

慰霊祭と慰霊堂

昭和9年の大火概況   P728−P730

表2−178 昭和9年の大火概況
出火時間
出火場所
焼失区域
焼失戸数
雁災人口
損害総額
死者
焼失建物
鎮火時間
3月21日午後6時53分
函館市住吉町91番地
4.164平方キロメートル
2,267世帯
10,996人
123,918,027円
2,166人
11,105棟
3月22日午前6時
『函館大火史』より作成
 昭和9年3月21日午後6時53分、函館市住吉町の民家より発火した火災は、風速20余メートルにおよぶ東南の烈風に煽られて火勢劇烈を極め、瞬時にして他に延焼拡大していった。物凄い火炎は、青柳町より豊川町、鶴岡町、松風町、新川町方面を襲い、消防隊や軍隊等の必死の努力も、烈風と倒壊した家屋や電柱等の障害物に妨げられ、充分なる機能を発揮することが出来なかったのである。その後、風向が漸次西方に変化するに伴って末広町、会所町、元町方面は幸いに二十間坂によって延焼を遮断することが出来たが、反対に風下にあたる新川町、堀川町、的場町の間は全く廃墟に帰し、さらに北方に向かって延焼し、翌22日午前6時頃に鎮火することができたのである。実に、全市の3分の1を焼失したのである(『函館大火災害史』)。
 大火の被害が大きかった原因を、当時の建築学会による報告書は、「一.発火より消防署に於て知覚するまでに約五分を要したこと、二.風力甚大で火災の伝播速度大且飛火多く尚風向の旋転方向亦最悪的であった事、三.火元付近は特に地形の関係に依り延焼中頻りに風の旋転、突風起りし事、四.発火地点及海岸付近は特に矮小粗悪木造家屋連担し且全市に亘り粗雑木造家屋が多かった事、五.防火地区極めて尠く、広場、公園等の都市計画上の施設が完備して居なかった事、六.発火地点は水道終点である為め水圧弱く水量乏しく、加ふるに風力強き為めに消防組の活動意の如く行われなかった事、七.道路概して狭隘にして消防組の部署変更に困難なりし事」(『函館大火災(昭和9年3月21日)調査報告』)と説明しており都市計画事業との関連性を想起させている。


図2−20 昭和9年大火の焼失区域


昭和9年大火後の函館市街(北海道写真史料保存会蔵)
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ