通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
第2章 高度経済成長期の函館 濡れ珍味加工業の沿革 |
濡れ珍味加工業の沿革 P413−P415 函館地区における濡れ珍味加工業は従前からイカ塩辛や松前漬などで知られてきたものの、総じて乾燥珍味加工業に隠れた存在でしかなかったが、昭和50年代に濡れ珍味が珍味加工の新たな領域として台頭してくることで乾燥珍味に比肩すべき業種となってきた。濡れ珍味加工の中心をなすイカ塩辛は、本来、家庭において自家加工されてきた惣菜品であるが、その商業的な生産・販売が始まるのは大正年代であり、本格的に加工形成が進められるのは昭和年代に入ってからである。戦前における最大の産地は函館地区であり、地元向けの販売のほかに本州方面にも多く出荷され、一部は遠く朝鮮半島・中国東北部まで送られていた。戦後の昭和20年代においてもスルメと共に函館を代表する産品として活況を極めるが、新興産地・八戸産の低塩塩辛との市場競合に敗退する形で収束していくこととなり、以降は中小の専業加工者によっておもに大都市消費地の製造問屋や小田原地区の塩辛加工業者などに対するバルク出荷(小分けしないで樽や缶によってバラの状態で出荷されるもの)が細々と続けられてきただけであった。
函館における濡れ珍味の生産額は昭和51年の49億4100万円から58年で100億円の大台に、さらに昭和62年で143億5200万円に達し、11年間で実に2.9倍の伸びを呈していた(表2−14)。こうした生産の伸びを支えていたのがイカ塩辛を中心としたイカの「その他の生鮮珍味」、イカ以外のその他の生鮮珍味、佃煮類、ウニ魚卵あえ物類、松前漬類などの製品であった。なかでも主力のイカ塩辛は昭和51年の21億300万円から62年の46億500万円と2.2倍の伸びを、さらにイカの「その他の生鮮珍味」は同じく2億100万円から35億3200万円と17.6倍もの伸びを呈していたのであった。昭和62年の製品別内訳ではイカ塩辛が46億500万円で全体の32.1パーセントを占めてもっとも多く、ついでイカの「その他の生鮮珍味」が35億3200万円(24.6パーセント)と続き、さらにイカ以外のその他の生鮮珍味の24億1100万円(16.8パーセント)、佃煮類の14億9200万円(10.4パーセント)、ウニ魚卵あえ物類の8億800万円(5.6パーセント)、松前漬類の7億2600万円(5.1パーセント)などの順となっていた(前掲『創立三〇周年』)。
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第4巻第6編目次 | 前へ | 次へ |