通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み |
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第1章 敗戦・占領、そして復興へ 朝鮮人の帰国問題と朝鮮人連盟の推移 |
朝鮮人の帰国問題と朝鮮人連盟の推移 P84−P86 この広告からも明らかなように、函館地方在住朝鮮人の帰国に当たっては、この函館地方朝鮮人連盟(会)が申込み手続きの窓口となっていた。この問題では、12月4日になり、船舶運営会函館支部が中心となって在函朝鮮人送還連絡打合会が開催され、今後の配船計画などについて協議した。この打合会には、函館市役所・渡島支庁・函館警察署・函館水上署などが参加した(昭和20年12月5日付け「道新」)。12月中旬の輸送計画によると、「十二月十二日出港予定、第三大宝丸(一六六八トン)乗員八〇〇名 十三日出港予定、戸上山丸(九五〇トン)乗員四〇〇名 十八日入港、十九日出港予定、大郁丸(六九〇〇トン)乗員三〇〇〇名 十九日入港、二十日出港予定、辰春丸(六八〇〇トン) 乗員三〇〇〇名 二十日頃入港予定、新潟丸(二五〇〇トン)乗員一〇〇〇名」となっているが(昭和20年12月12日付け「道新」)、これらの輸送船で帰国した朝鮮人は強制連行された炭鉱労働者が多かったと考えられ、「先住」と呼ばれる函館在住の朝鮮人がどの程度帰国したかはよくわからない。まもなく国鉄は、GHQからの指示によって朝鮮人帰国者の輸送業務を12月31日から「当分の間中止する」という措置を取った(昭和21年1月1日付け「道新」)。そして、翌21年2月18日を以て、函館市在住朝鮮人の本国送還はひとまず打ち切りとなったが、当日の帰国者は124名であった。函館市内には300名程度の朝鮮人が依然として在留していると予想されることから、近々一斉調査をおこない、「浮浪朝鮮人」と「善良なる定住希望の朝鮮人」を区別して強制送還に踏み切ると報じられている(昭和21年2月21日付け「道新」)。昭和22年の国勢調査によると、函館在住の朝鮮人は456名となっており、戦前からの「先住」朝鮮人の多くは、そのまま残留していたのではないかと想像される。 だが、このように朝鮮人の帰国の中心となっていた函館地方朝鮮人連盟は、札幌で朝鮮人援護局の勢力が強くなると共にその支部に衣替えした。昭和21年1月9日付けの「北海道新聞」に「朝鮮人会名変更広告」が掲載されているが、それは、これまでの「函館地方朝鮮人連盟会」の名称を、「朝鮮臨時政府代表駐日事務館直属」の「北海道朝鮮人援護局函館支局」に改称し、「治安隊ノ名称ハ育衛隊ト変更」するというものである。支局長にはこれまで通り田村春源が就任し、「朝鮮人に急告」という見出しで「帰国希望者」はこの函館支局に申し出ることを再三に亘って広告している(昭和21年1月17・18・21・22日付け「道新」)。
この記念式典の終了後、引き続き懇談会が開かれて午後7時に閉会したが、新しい支部役員には魏春源委員長以下、次のような人たちが就任した(表1−4)。このような組織を擁する函館支部の実態は不明だが、職制各部の編成は、朝鮮人連盟中央総本部の組織にほぼ対応している。 なお、この朝鮮人連盟は、その後次第に政治的色彩を濃厚にしていくが、連盟の「朝鮮人民共和国」支持という方針に反対する人たちは朝鮮建国促進青年同盟や新朝鮮建設同盟を結成した。この両組織は、後に合同して在日本朝鮮居留民団を結成し、朝鮮人連盟に対抗した。このようにして朝鮮人連盟は分裂し、昭和24年9月には、団体等規正令によりほかの朝鮮人団体とともに解散の措置を受けた。このような中央の動きに対応して、北海道でも昭和23年になって朝鮮人連盟北海道本部が分裂、朝鮮人連盟北海道本部前委員長の金住喜らが在日朝鮮居留民団北海道本部を結成し、翌24年には、元委員長の南昌雲等も朝鮮居留民団の後身に当たる大韓民国居留民団北海道本部に合流した(昭和26年版『北海道年鑑』)。 |
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