通説編第4巻 第6編 戦後の函館の歩み


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第1章 敗戦・占領、そして復興へ
第1節 連合国軍の函館進駐
3 外国人労働者の動向

戦時期の朝鮮人労働者

朝鮮人と中国人の強制連行

函館俘虜収容所

敗戦時の外国人労働者

敗戦と朝鮮人連盟函館支部の結成

朝鮮民族統一同盟と朝鮮人連盟中央総本部

統一同盟全道大会と朝鮮人連盟小樽支部

北海道朝鮮人援護局

函館地方朝鮮人連盟の結成と活動

朝鮮人の帰国問題と朝鮮人連盟の推移

食糧危機と配給事情

函館の闇市とその取締り

朝鮮人団体の抗議

朝鮮人と中国人の強制連行   P73−P74

 朝鮮人の強制連行が始まるのは昭和14年10月からであるが、以後同20年までの間に北海道へ連行された朝鮮人労働者の総数は、約14万5000名前後と推定されている。こうした朝鮮人労働者の労働現場は、おもに炭鉱と鉱山であった。昭和18年3月の中央協和会の調査では、北海道に「移入」された朝鮮人の80パーセント以上がこれらの現場に投入されていた。
 このような事業所のない函館市では、連行された朝鮮人のおもな事業所として造船関係と運輸関係があった。造船関係は東日本造船(株)函館工場と函館船渠(株)であるが、東日本造船には、昭和18年9月から258名の朝鮮人労働者が「移入」され、20年3月末現在では192名の労働者が在籍していた。函館船渠には、同18年3月末に100名、翌19年3月末に130名の朝鮮人労働者がそれぞれ在籍し、20年1月に作成された北海道庁による勤労動員計画数では100名となっている。運輸関係では、日本通運函館支店による函館駅や海岸町での荷役関係の業務が中心と思われるが、はっきりしたことはわからない。同函館支店における20年1月の動員計画数では50名となっている。このほかに、戦後函館市に合併された亀田村(昭和37年町制施行、同46年市制施行、同48年合併)と銭亀沢村(昭和41年合併)を含めれば、瀬崎組による亀田村での軍工事現場や石崎銭亀沢鉱山も該当しよう。亀田村の軍工事には、20年に200名の朝鮮人労働者が割り当てられており、銭亀沢鉱山には、18年5月末現在4名の朝鮮人労働者が働いていた(北海道編『北海道と朝鮮人労働者』)。
 一方、昭和18年以降に本格化した中国人労働者の強制連行についてみよう。北海道には、58の事業所に1万9632名の中国人が送り込まれているが、これらの中国人を使用した函館の事業所は、東日本造船(株)函館工場・(株)瀬崎組有川出張所・日本港運業会函館華工管理事務所・(株)地崎組函館出張所・(株)菅原組函館出張所の5か所であった。このうち、日本港運業会函館華工管理事務所と地崎組函館出張所の使用者は函館港運(株)であった。そして、受け入れから敗戦後の送還まで中国人労働者が同一の事業所にいたのは瀬崎組と菅原組だけである。東日本造船と地崎組は他の事業所への転出であり、日本港運業会函館華工管理事務所は、他の事業所からの転入であった。したがって、敗戦時に中国人が在留していたのは瀬崎組(276名)と菅原組(186名)、日本港運業会函館華工管理事務所(401名)の3事業所であった。これらの中国人は、ほとんどが函館港とその周辺地区での港湾荷役作業に就労していた。
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