通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
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第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 『戦旗』函館支局事件 |
『戦旗』函館支局事件 P1100−P1101 この事件は事件発生半年後の昭和6年6月3日記事解禁となり、「函館新聞」は6月4日付けで大きく報道している。それによると「三・一五事件」「四・一六事件」で函館地方の左翼団体(主として共産党およびシンパ)は壊滅的打撃を受けたが、昭和4年の夏頃から、再建の機運が起きていたという。こうした中で昭和5年12月1日未明に起きたいわゆる「『戦旗』函館支局事件」は、この時期の函館における規模の大きな検挙事件であった。雑誌「戦旗」は、プロレタリア文化運動を目的としたナップ(全日本無産者芸術団体協議会)の機関誌で、当時、階級的文芸雑誌として知られていた。この事件で取り調べを受けた関係者は50名(うち女性7名)、検挙者は13名(うち女性1名)で、伊月剛三、加藤秀雄の2人が起訴され、懲役2年の実刑を受けた。「『戦旗』函館支局事件」が起きたこの日は、全道的には「一二・一全協事件」として知られ、103名が検挙されている。全協(日本労働組合全国協議会)は、「三・一五事件」後、解散を命ぜられた日本労働組合評議会の後を受けて、昭和3年12月に設立された。北海道の左翼運動は、「四・一六事件」後、幹部の検挙が続いたため、中央からのオルグ派遣による再建ではなく、全協を中心とした左翼労働運動として展開されていた(荻野富士夫『北の特高警察』)。そのため全協に対する弾圧は「一二・一事件」後も引き続き、根こそぎの「赤化分子の検挙」(昭和6年6月4日付「函新」)が続けられた。函館における検挙が、全協事件とは別に行われ、なおかつ検挙数が全道的に見ても多かったことは、この時期における函館の左翼運動が依然として一定の力を持っていたことを示すものである。 また、「『戦旗』函館支局事件」関係者には、学校関係者がいたこともあり、事件公表直後の市議会で大きく取り上げられたほか、女性の検挙者もいたことから扇情的な報道がなされた。 |
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