通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 |
|
第2章 20万都市への飛躍とその現実 第9節 労働運動の興隆と衰退 苦戦する社会運動の担い手 |
苦戦する社会運動の担い手 P1096−P1097 次第に困難になる社会運動ではあったが、新たな支援者や担い手も登場している。その1人である加藤貫一(明治23年、青森市生まれ)は、第二高等学校をへて東京帝国大学法学部独法科を卒業し、函館弁護士会所属弁護士となり、大正14年7月の政治研究会函館支部の結成に参加した。同15年労働農民党函館支部長となり、昭和3年の第1回普通選挙に同党より立候補(北海道3区)したが落選した。同年9月20日、市議会補欠選挙の際、旧労働農民党からは新党準備会を代表して加藤が立候補した。函館ドッグの労働者は、会社と交渉の末、投票日当日を繰り上げ休業にさせ、投票行動を行ったが、得票数は1500余票で、次点であった。また、昭和4年11月新労農党の結成大会に参加して、函館支部長になった。この間、昭和2年の上磯町浅野セメント工場の降灰被害に対する補償闘争、昭和4年の蜂須賀農場争議(空知支庁・雨竜村)の他、函館地方の労農運動に関与し、常に弱者の立場に立った弁護士であった。昭和5年2月の総選挙に向けて、新労農党北海道支部連合会は、選挙スローガンに「一、解雇、賃金値下絶対反対! 二、失業者に食と仕事を与えよ! 三、土地を農民へ! 四、労働者農民の政治的自由獲得 五、税金は資本家地主が負担せよ! 六、帝国主義戦争絶対反対!」を掲げて、選挙戦の準備を進めていた。しかし、函館を中心とする北海道3区から立候補した新労農党函館支部長の加藤貫一は議会解散当日の1月21日、突如検挙された。この背景は定かではないが、加藤の収監が長引いたために、立候補を断念せざるを得なかった。この選挙において新労農党からは、全国で唯一、党首の大山郁夫だけが当選した。 この時期、函館では昭和4年12月から同5年末にかけて、「函館労農新聞」が発行されている。同新聞は新労農党系の機関誌で発行人兼編集人は野上繁である。野上は左翼の幹部が検挙される中で困難な運動を担った1人で、5年10月の市議会選挙などに立候補しているが、当選することはできなかった。同新聞には、失業問題、家賃値下げ問題が頻繁に取り上げられている。野上は「函館労農新聞」を発行し、旧労農党の階級的伝統を守ろうとしたが、この頃になると孤軍奮闘せざるを得なくなっていた。上記市議会選挙後の会派別内訳は民政党18名、政友会14名、中立6名、社会民衆党2名(渡辺源助−海員組合常務員、宮川義雄−海員協会出張所長)。なお、この選挙において旧労農党の市会議員であった高島末太郎、青野三郎は政友会系から立候補したが落選している。 |
「函館市史」トップ(総目次) | 通説編第3巻第5編目次 | 前へ | 次へ |