通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影


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第2章 20万都市への飛躍とその現実

第9節 労働運動の興隆と衰退
4 労働争議と無産政党の結成

函館交通争議の始まり

政治的高揚と無産政党の結成

函館第1回メーデー

労農党函館支部の結成

労働争議の拡がりと第2次水電争議

水電買収問題

漁業労働者問題

警察の介入

函館交通争議の始まり   P1073−P1075

 交通争議として有名な函館の水電争議は数回にわたって起きているが大正14(1925)年4月のいわゆる第1次水電争議の前にも発生している。最初の争議は、大正12年秋、会社側が一方的に労働時間の延長を申し入れてきたことから争議となった。ストライキの結果、会社側は提案を撤回したがこの争議の中心人物武内清はこの一件で解雇された。

五稜郭の外堀に集合中の電車従業員(大正14年5月3日付「函新」)
 続いて大正14年4月30日、「北海道初の交通ストライキ」として知られ、第1次函館水電争議と言われる大規模な交通争議が発生した。争議の原因は、同日、電車従業員が函館水電会社に、8時間労働、本俸3割増、解雇手当などを求めて嘆願書を提出したが、会社側が回答を伸ばしたために従業員側との対立が深まった。従業員側は、その後、要求書、決議文の相次ぐ提出に続き、5月2日夜、千代岱万年寺で集会を持ち、「万一不幸にして市民諸氏に対し迷惑を及ぼすが如し結果に至るときは其責、断じて会社の負べきものである」とした「声明書」を発表した(大正14年5月4日付「函毎」)。その後、「会社側に誠意なし」として、同月3日早朝から乗務員170名が結束してストライキを行った。会社は、管理者の内、運転の心得ある者を動員し、3日は午前10時より市内線10台、湯の川線数台、翌4日はそれぞれ12台、3台を運行させたが利用者に対して電車の数は絶対的に少なく市民の足は混乱した。
 こうした中で5日、会社側は「乗務時間八時間二十六分、勤務時間十時間三十三分」、「平均六十円が七十余円の増給」、さらに「会社内の職工々夫日雇人一同の増給」を含む待遇改定案を提示したため、電車従業員はこの要求を受入れ、同日午後2時ストライキを中止し職場復帰した。
 この時期、交通・運輸関係労働者の同様の動きは全国的にも見られた。大正13年5月1日、東京市電従業員自治会が創立され、この年の暮に待遇改善を求めてストライキを準備している。またこの頃、関西地方では交通争議が頻発し、特に同年6月27日に発生した大阪市電争議は有名である。函館水電争議も全国的に注目され、日本交通労働総連盟・東京市電書記の島上善五郎(明治36年生、のちに社会党代議士)や函館合同労働組合の指導、応援を受けている。
 この争議では前述の鈴木、武内、袴田が指導的立場にあったが全員争議中に検挙されている。しかし、この争議において労働者側の要求実現は不十分であったものの一応の待遇改善を見たことから、争議団は労働者の信頼を得ることとなり、5月20日、函館水電株式会社従業員交誼会が結成された。その後、同交誼会は日本交通労働総連盟に加盟した。
 大正14年春の第1次函館水電争議は一時収束したが、その後も労使の対立は燻り続け、秋口から再び問題化してきた。同年11月27日、会社側が「懲戒規定」を発表したことから従業員組合である交誼会は、12月14日、「一、八ヶ月前決定せる共済会設置の件を至急実施され度きこと 二、延長線に対する人員を増加され度きこと 三、冬期間保健上特別手当を支給され度きこと 四、改正懲戒規定は待遇改善の趣旨に反するものにつき撤廃されたきこと」とする内容の嘆願書を提出した(「無産者新聞」第10号)。翌15日の会社側との交渉では「共済会設置」の要求は通ったが他は拒否された。16日には函館労働組合協議会が、参加各団体が交誼会を全面的に応援することを決定したとする声明書を発表、18日には同協議会主催で水電糾弾大演説会が開催されるなど、函館市内の組織労働者の支援を受けた。
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